真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 平成20年映画鑑賞実績:218本 一般映画:34 ピンク:160 再見作:24 杉本ナンバー:46 ミサトナンバー:4

 平成19年映画鑑賞実績(確定):228本 一般映画:55 ピンク:156 再見作:17 杉本ナンバー:47

 再見作に関しては一年毎にリセットしてゐる。その為、たとへば三年前に観たピンクを旧作改題で新たに観た場合、再見作にはカウントしない。あくまでその一年間の中で、二度以上観た映画の本数、あるいは回数である。二度観た映画が八本で三度観た映画が一本ある場合、その年の再見作は10本となる。

 因みに“杉本ナンバー”とは。ピンクの内、杉本まこと(現:なかみつせいじ)出演作の本数である。改めてなかみつせいじの芸名の変遷に関しては。1987年に中満誠治名義でデビュー。1990年に杉本まことに改名。2000年に更に、現在のなかみつせいじに改名してゐる。改名後も、旧芸名をランダムに使用することもある。ピンクの畑にはかういふことを好む(?)人がままあるので、なかなかに一筋縄には行かぬところでもある。
 加へて今年から戯れにカウントする“ミサトナンバー”とは。いふまでもなく、ピンク映画で御馴染みプールのある白亜の洋館、撮影をミサトスタジオで行つてゐる新旧問はずピンクの本数である。もしもミサトで撮影してゐる一般映画にお目にかかれば、当然に加算する。


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 「ノーパンパンスト痴女 群がる痴漢電車」(2007/製作:松岡プロダクション/提供:Xces Film/監督:松岡邦彦/脚本:今西守/企画:亀井戸粋人/撮影:村石直人/照明:大貫栗太/編集:酒井正次/助監督:伊藤一平/撮影助手:橋本彩子/応援:永井卓爾・竹洞哲也/音楽:戎一郎/出演:河野あずさ・薫桜子・小川真実・柳東史・世志男・サーモン鮭山・小林節彦・綱島渉・吉岡睦雄)。
 7時24分のノーパン痴女・太田陽子(河野)、毎朝決まつた時間に通勤快速に乗り込んではメールで痴漢して呉れる男を募集し、プレイに戯れるその筋では名の通つた痴女である、どの筋だ。けふも毎日痴漢される陽子を見守るのみで、決して自分からは手を出さない大学教授・森下元之(小林)が手鏡で見守る中、陽子は豊満な肉体を高校教師の前田朝夫(柳)に弄られる。主演の河野あずさ、総合的に山口玲子と酒井あずさを足して二で割つたやうな女で、痴漢映えする突進力ある色気はいいのだが、最終的に衣服を全てひん剥いてしまふと、胸囲と殆ど変らぬ腹回りは頼むからどうにかならないものか。ところが前田は偶々陽子の傍らに乗り合はせたに過ぎないもので、陽子とメールで本来遣り取りしてゐたのは、労務者の五平玉男(世志男)であつた。現れた五平は前田を一喝、陽子をお持ち帰りする。五平は陽子を公衆便所に連れ込むと、強引に犯す。OL風の衣装に身を包んだ陽子の本当は主婦であるといふ素性を、五平は見抜いてゐた。一方陽子を五平に奪はれ、前田は悶々とした一日を過ごす。放課後声をかけて来た同僚のオールドミス・森下結子(小川真実)を、前田は教室にて衝動的に抱いてしまふ。事後、憑き物を落としたかのやうに我に帰る前田に対し、こちらはすつかりその気になつた結子は、俄かに前田との結婚を現実的日程として語り始める。戦慄する前田、これは本当に恐ろしい。銀幕のこちら側から劇中の柳東史に、リアルな同情を禁じ得ない。“エクセスの黒い彗星”松岡邦彦が今回繰り出すのは、さういふげに恐ろしきサイコ・スリラーである、といふのは嘘である   >なら書くな
 剥き出されたドス黒い悪意が互ひに火花を散らし暗黒喜劇の真骨頂たる前作、捨て身に攻撃的な主演女優と破壊的な映画のハード・ランディングとが炸裂する前々作に続く松岡邦彦2007年第三作は、2006年の大傑作「ド・有頂天ラブホテル 今夜も、満員御礼」と同系統の、堂々とした痛快娯楽映画である。文字通りのグランド・ホテルを華麗に展開した「ド・有頂天ラブホテル」に対し、今作は様々な人間を乗せた痴漢電車が、こちらも文字通りの電車道を驀進する。五平が陽子を持ち帰るところまででプロットの説明と、小ネタと意外な伏線とを落とし、結子登場で布陣を整へると同時に小川真実の濡れ場で一息ついたところで、中盤から登場し、俄然強力な牽引車として路線に飛び込んで来るのはサーモン鮭山。7時24分のノーパン痴女の噂を追ふTVディレクターの山﨑亨(サーモン)は、子飼ひの泡沫タレント・森下愛子(薫桜子@エクセス初参戦)と、ネットで出会つた本物の痴漢、兼二留中で前田の生徒でもある太田治(綱島)を伴ひ、擬似、といふか要は捏造ドキュメンタリーの撮影を試みる。かういふ、フリーダムなフットワークの軽さも堪らない。前田が愛子の豊満な肉体を自由にする治に臍を噛む中、陽子登場、山﨑と一戦交へる。愛子と治、陽子と山﨑とが仲睦まじく手と手を取り電車を後にする中、再び前田は一人地団太を踏む。ここまでも山﨑がマシンガンのやうに繰り出す小ネタに乗せられて十二分に面白いのだが、完成された娯楽映画の輝きが新たな光芒を放つのはここから。意外なところでの思はぬ再会を経て、再度、7時24分の痴漢電車に愛子を除く全ての登場人物が改めて集ふクライマックスは正しく超絶。陽子と前田の二人からスタートして、一人二人とフレーム・インしやがて繰り広げられる押し合ひ圧し合ひの大痴漢カーニバルは圧巻の一言に尽きる。画面の隅々まで埋める強力な出演陣が矢継ぎ早に繰り出すギャグの数々は何れも有効打、五平の意外な素性に木に接がれた竹を感じるならば、冒頭の公衆便所での、陽子と五平の事後の遣り取りを想起してみればよい。全篇を通してバラ撒かれたネタの数々が、オーラスの痴漢電車で全て見事に回収される。完成品のみが持ち得る強度が煌く痴漢電車、そして娯楽映画のマスターピースである。封印した暗黒性を娯楽映画の舵を取る推進力に注ぎ込んだのか、裏の裏といふことで表松岡邦彦ここにあり、を銀幕に刻み込む傑作。震へるまでの今西守の充実に加へ、ここに来てお芝居の自由度が飛躍的に増して来た世志男も眩しい。大門通、坂本太、下元哲や神野太らが脇を固める中、打率と水準の高さとで山内大輔とツートップを組んで、松岡邦彦にはエクセスと、ピンク映画を今後とも引張り続けて欲しい。

 本篇クレジットにもポスターにも確かに名前の載る、吉岡睦雄が何処に出演してゐたのかが感動的に判らない。実際に出てゐるとするならば、陽子の回想中に登場するアイコンとしての痴漢氏か。顔は一切捉へられず後ろから陽子の体を弄(まさぐ)るだけなので、正直確認能はず。


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 「催眠エクスタシー 覗かれた性交癖」(2007/製作:旦々舎/提供:オーピー映画/脚本・監督:山﨑邦紀/撮影・照明:小山田勝治/撮影助手:大江泰介・関将史/助監督:横江宏樹・小山悟/編集:㈲フィルム・クラフト/音楽:中空龍/挿入歌:廣川雅規/録音:シネキャビン/現像:東映ラボ・テック/キャスティング協力:株式会社スタジオビコロール/出演:北川絵美・佐々木麻由子・荒木太郎・吉岡睦雄・三浦漣徳・佐々木基子)。
 キャリーバック片手に、“眠らない女”微睡(まどろみ/北川絵美)が街々の風景をデジカメに収めて歩く。自称全く眠らない微睡は、自分は人間の母親から生まれて来たのではなく何か宇宙から落ちて来た生命体で、眠らない分、人の二倍の速さで加齢して行くといふ幻想に囚はれてゐた。背景の電話ボックスから、ロボットダンスのやうにせり上がりながらカット・インする小業を見せつつ、ガリバー(荒木)が微睡に熱い視線を注ぐ。ガリバーはガリバーで、本来ならばいはゆる巨根とされるサイズの自らの男性自身が、徐々に収縮し、やがては消失するに至るといふ恐怖に怯えてゐた。ところで微睡がシャッターを切る毎に淫靡な妄想に震へるのは、女の裸を見せる方便といへばそれまででもあれ、狂ほしいほどにまるで意味がない。
 一方オットー・ランクの肖像が掲げられた、リバース研究所。勿論御馴染み浜野佐知の自宅こと旦々舎総本山であるのは、この期にいふまでもあるまい。所長・アヤメ(佐々木基子)の下、窒息状態に快楽を覚える県会議員候補・グルジア(三浦)、自分のヴァギナは締めつけが甚だしく、男の一物を押し潰してしまふといふ強迫観念に苛まされる弁護士・東堂切子(佐々木麻由子)、苛烈な拘束状態に喜悦する医師・網雄(吉岡)らが催眠治療を受けてゐた。
 後に破門されるやうな形で袂を分かつものの、いはゆるフロイト一派の精神分析家・オットー・ランク(1884~1939)。今作はランクの提唱したバーストラウマ理論を大胆に採用した、といふか詰まるところはさしたる工夫も欠き都合よく援用した、山﨑邦紀十八番の奇人博覧会、あるいは変態さん大集合である。
 その道に勿論通じてゐる訳でもないゆゑ適当にザックリ片づけると、バーストラウマ理論にあつては、誕生から出産までを四つの過程に分類する。第一過程:母親と完全に一体化した、至福の状態。第二過程:子宮の中で成長するにつけ、段々と窮屈さを覚えて来る期間。少なくとも今作に於いては最も重要視される第三過程は正に出産の過程で、胎児は産道で激しく締めつけられ、圧迫される。そして最終の第四過程では終に外界に剥き出され、圧迫からは解放される。それは同時に、母親との一体感の喪失と独り世界に取り残された孤独とを意味する。バーストラウマ理論とは要は第二過程以降の心理的、肉体的ストレスがトラウマとなり、その後の個々人の人生を大きく左右するとかいふ理論である。変態性行や神経症を“失敗した芸術”と捉へるランクの発言も、繰り返し引用される。
 様々な奇想、怪思想に支配され、現実社会からは零れ落ち気味の変人達が組んづ解れつの狂想曲を奏でる桃色万華。さういへば、何時もの山﨑邦紀にとつてはお家芸であるかのやうにも一見思へるが、今作は実に底が浅く、芸がない。各々の妄想、イデオロギー、あるいは特殊性癖はバーストラウマ理論、の通俗的換骨奪胎の枠内に予め押し込められ、しかもガリバー含め微睡以外は、既に専門家の治療下にすら置かれてゐる、物語に想像力の働く余地といふ意味での遊びがまるでない。加へて、そこに外から現れた微睡の登場によつて、六十億ある人の心が抱へた種々多々の問題を、出来合ひの一理論で整理づけ、解決して行かうとする浅墓な営みを蹴倒すダイナミズムが開陳されるとでもいふのならば兎も角。結局ガリバーに誘(いざな)はれた微睡も、切子らの協力を受けアヤメの治療を受けるといふ展開には何の面白味も感じられない。微睡との語らひの中でガリバーが繰り出す、父親との関係を重視したフロイトに対し、母親とのそれに重きを置いたランクの方がより東洋的で、日本的であるなどとする発言に至つては、黙つて聞き流せば何となくアカデミックな風を垂れてゐるやうに聞こえかねないのかも知れないが、実のところは欠片たりとて論理的ではない。全く理解に苦しまざるを得ない、大好きな監督でもあるので敢て仮借なくいふが、理に落ちる以前の失敗作である。ここから先は極私的な志向、あるいは嗜好でもあるが、乱歩いはくの現し世は夢であり、夜の夢こそ誠とするテーゼこそが、福田恆存の『一匹と九十九匹と』にも最終的には連なる、全ての物語を統べるべく真実であると固く信ずる立場からは、夜の夢を現し世の地べたに無様に着地せしめんとする物語に対しては、激しい拒否反応にも似た抵抗を禁じ難いものである。
 2006年浜野佐知最終作「SEX捜査局 くはへこみFILE」に提供した脚本では、銀幕を震撼させる大いなる充実を轟かせた山﨑邦紀ではあるが、理にすら落ちてゐない今作(一月封切り)に加へ、続く2007年浜野佐知第一作「魔乳三姉妹 入れ喰ひ乱交」(三月封切り)脚本に際しても、拡げた風呂敷を全く回収し損なふ醜態を曝す。ピンクは一本きりと後は薔薇族映画の一本に止(とど)まつた2006年に対し、2007年は監督作ももう二本発表してゐるので、再起を大いに望むところである。

 数少ない収穫は潔く役者に特化して欲しい荒木太郎の倒錯演技と、自分のヴァギナが男の一物を押し潰してしまふ強迫観念に囚はれた切子と苛烈な拘束状態に喜悦する網雄とが、アヤメの催眠療法に導かれセックスする。その模様をアヤメと眺めてゐたグルジアいはく、「正に竜虎相搏つ戦ひですね」、この台詞は可笑しかつた。ところで同じことを度々繰り返すのも心苦しいことこの上ないが、吉岡睦雄のカラ騒ぎは、山﨑邦紀の論理性に対しては阻害要因たり得るやうにしか思へない。グルジア役の三浦漣徳は吉岡睦雄よりはマシに見えるが、それは要はマイナスよりはゼロでも大きく見える、といふだけの情けない次第である。網雄役はなかみつせいじで、グルジアは柳東史では何故にいけないのか。
 挿入歌、といふか要はエンディング曲の廣川雅規は、二十年一日のインディーズ感覚で、変態性行や神経症を“失敗した芸術”と称するランク先生に対し感謝を連呼する。ガチャガチャと安きに過ぎるトラックながら、個人的には嫌ひでない種類の音楽ではある。一本の商業映画を締め括る楽曲にしては、矢張り相応しくはなからうが。


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