酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「時々、わたしは考える」~孤独な女性が社会のドアを開けた

2024-08-26 21:22:52 | 映画、ドラマ
 古希が近づいたせいか、ノスタルジックな気分になって10代、20代の頃を振り返ることが増えた。消したい記憶ばっかりで、最低とまでは言わないが、寛容で温かい友人たちに支えられていたことに気付いた。躁鬱――今風にいえば双極性障害――を俺はずっと抱えてきたのだ。

 大卒後のフリーター時代に知り合った者たちにとって、俺は〝暗い奴〟だった。ある男性には「おまえ、爆弾でもこしらえているんか」とからかわれ、ある女性には「あんた、友達いないでしょう。付きまとわないでね」と言われた。両親も〝息子が事件を起こしてニュースに出るのでは〟と心配していたぐらいだから、心外ではあるけれど、〝犯罪者予備軍〟と映っていたことは間違いない。

 勤め人になってから、誤った社交性を発揮した。〝誤った社交性〟というのは、自分を中心に周りを動かしたいというエゴに基づいていたからで、迷惑をかけた方々に遅ればせながらお詫びしたい。新宿シネマカリテで見た「時々、わたしは考える」(2023年、レイチェル・ランバート監督)が、他者との距離感をうまく取れない自分を顧みるきっかけになった。

 舞台はオレゴン州にある人口1万ほどの港湾都市アストリアだ。主人公のフランを演じるのは「スター・ウォーズ」シリーズ(俺は未見だが)で知られるデイジー・リドリーでプロデユーサーも兼任している。フランは小さな会社(倉庫管理関係?)で経理を担当しているが、職場では同僚と言葉を交わさず変わり者と見做されている。自宅と職場を往復するだけで、夕飯は温めたカッテージ・チーズをワインで流し込んでいる。

 原題は「サムタイム・アイ・シンク・アバウト・ダイイング」で、邦題では〝ダイイング〟がカットされている。森の中に横たわるフランの手に屍肉を食らう虫が蠢いていたり、職場の窓の外に上下するクレーンに首吊りを連想したりするシーンに死への渇望を見いだしたが、暗いイメージは感じない。幻想や空想を繰り返すフランに重なったのは作家のシャーリイ・ジャクソンだった。フランの背後に現れる大蛇は、再生への希求のオマージュなのか。

 日常に変化の兆しが現れた。定年退職したキャロル(マルシア・デボニス)の後任として入社したロバート(デイヴ・メルヘジ)は社交的ですぐに職場に馴染んだ。フランにも積極的に接近し、映画に誘う。冴えないオッサンという感じだが、男性に免疫のないフランはその存在が気になってしまう。普段は地味ないでたちなのに、赤い服を着て出社したのには驚いた。

 ロバートの友人が主宰する〝殺人者推理パーティー〟に参加したフランは、機転の利いた発想で周りを驚かせる。バツ2のロバートの思いをやんわり拒絶したフランが帰宅後、涙を流すシーンが印象的だった。本作をぎこちないラブコメディーと見ることも可能だが、少し違うと思う。ロバートはフランにとって〝社会のドア〟を開ける人で、彼女の世界をカラフルに彩ってくれる。その積み重ねの先に恋が待っているかもしれない。

 ラストでフランはパン屋でキャロルと再会する。キャロルはクルージング旅行で世界を回っているはずなのに、夫の体調旅行で状況は暗転した。フランはドーナツを人数分購入して職場に向かった。今までなかったことに同僚たちは驚いた。ささやかな気遣いもまた、ドアを開けることと同義だ。フランを包む景色は変わっていくに違いない。
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