王将戦第2局は藤井聡太八冠が菅井竜也八段に連勝し、防衛に大きく前進した。藤井は収録済みのNHK杯でも久保利明九段に圧勝する。振り飛車党には悪い一日だったが、最近の菅井の好調ぶりは棋界に副作用を及ぼし、A級では佐藤天彦、豊島将之の両九段に続き、稲葉陽八段が振り飛車を採用して好結果を出した。多くの将棋ファンは振り飛車の〝復興〟を喜んでいる。
昨年11月、多和田葉子著「星に仄めかされて」を紹介した。「地球にちりばめられて」に続く3部作の第2弾で、中身を忘れないよう完結作「地球群島」(講談社)を読了した。第1部「地球にちりばめられて」、第2部「星に仄めかされて」と6人の登場人物は共通している。主人公(基点)というべきHirukoは新潟県出身という設定だが、母国は失われた。第3部「太陽群島」では5人の同行者とともに、日本探しの旅に出る。
Hirukoはパンスカ(汎スカンジナビア語)を創出し、国境を越えながら、必要な単語を拾ったり捨てたりして熟成させていく。日本語を話せる者を探して欧州を漂流するHirukoにとって、最も大切な友人はデンマークの言語学者クヌートだ。他の同行者は〝性の越境者〟であるインド人のアカッシュ、グリーンランド出身のエスキモーのナヌーク、人権や民主主義にこだわりを持つドイツ人のノラ、福井出身で年齢不詳のSusanoだ。6人はドイツ語、フランス語、英語、日本語、デンマーク語、パンスカで会話しながら船の旅を続けていく。
3部作は「献灯使」と設定が近い。3・11後に発表された同作で、日本は放射能汚染を恐れる諸外国の意思で遮断されている。距離を置いて日本を俯瞰したことで、「献灯使」は忌憚なきリアルな<ディストピア>になった。「太陽諸島」で多和田は国家の意味を問いかける。背景にあるのはコロナ禍とウクライナ侵攻だ。ベルリンで暮らす多和田は「自転車で通れたデンマークの国境も、歩いて行き来していたポーランドの国境も閉じられた。消えつつあったナショナリズムが、突然のように復活したのがショックでした」とインタビューで語っていた。
Hirukoは<今は海の上にいるから、国境がない。海の旅を続ければ、国境は一つもない>と言う。読者は国、民族、国籍、領土、性別……世界は線で区別されていることに気付かされる。人々が無意識のうちに線で理解していることに、多和田は忌避感を覚えているのだ。グダニスク、カリーニングラード、リガに寄港し、6人は住民たちと言葉を交わす。<ポーランドにとっては国がなくなるという事件はそれほどめずらしくはない。だから国よりも町の方が信用できる。町というものは石やレンガでできているから、そう簡単には消滅しない。国は書類上の約束事に過ぎない、つまり紙でできている>とポーランド人はアカッシュに話していた。
<方向まで失ってしまった。答えの出ない旅だね>と尋ねる同行者に、Hirukoは<答えは道中、すでに何度も出ているのかもしれない。それが答えだったと気がつくのは過去を振り返ってみた時のこと>と応じる。越境者、散歩者である多和田自身にとって、<旅の目的地は旅すること>なのだ。ラスト近くで<わたし自身が家になる>とHirukoは宣言する。Hirukoの目的地は自分の内側だったのか。
多和田の作品にちりばめられている言葉遊びは、本作で複数の言語がボーダレスになって、遊びの材料になる。後半になって、多和田の詩人としての側面が拡大し、イメージの豊饒な連なりが行間で爆発する。その典型は<鳥が空を飛ぶ。その影が海面に落ちて島になる>である。時空を超えたカルチャー空間が展開し、「惑星ソラリス」、「唐人お吉」やブレヒトについて会話が弾む。
Hirukoとクヌートは恋人同士に見えるが、性の匂いは皆無だった。だが、蜂蜜をきっかけにロマンスに発展する。<おまえは水蛭子(ひるこ)。影っぴらの、しぞこないの長女>と古事記を引用してHirukoを口撃したSusanoまで、神話に則りクシナダヒメの化身と思しき女性に求愛する。読み終えて幸せを味わえた小説だった。
昨年11月、多和田葉子著「星に仄めかされて」を紹介した。「地球にちりばめられて」に続く3部作の第2弾で、中身を忘れないよう完結作「地球群島」(講談社)を読了した。第1部「地球にちりばめられて」、第2部「星に仄めかされて」と6人の登場人物は共通している。主人公(基点)というべきHirukoは新潟県出身という設定だが、母国は失われた。第3部「太陽群島」では5人の同行者とともに、日本探しの旅に出る。
Hirukoはパンスカ(汎スカンジナビア語)を創出し、国境を越えながら、必要な単語を拾ったり捨てたりして熟成させていく。日本語を話せる者を探して欧州を漂流するHirukoにとって、最も大切な友人はデンマークの言語学者クヌートだ。他の同行者は〝性の越境者〟であるインド人のアカッシュ、グリーンランド出身のエスキモーのナヌーク、人権や民主主義にこだわりを持つドイツ人のノラ、福井出身で年齢不詳のSusanoだ。6人はドイツ語、フランス語、英語、日本語、デンマーク語、パンスカで会話しながら船の旅を続けていく。
3部作は「献灯使」と設定が近い。3・11後に発表された同作で、日本は放射能汚染を恐れる諸外国の意思で遮断されている。距離を置いて日本を俯瞰したことで、「献灯使」は忌憚なきリアルな<ディストピア>になった。「太陽諸島」で多和田は国家の意味を問いかける。背景にあるのはコロナ禍とウクライナ侵攻だ。ベルリンで暮らす多和田は「自転車で通れたデンマークの国境も、歩いて行き来していたポーランドの国境も閉じられた。消えつつあったナショナリズムが、突然のように復活したのがショックでした」とインタビューで語っていた。
Hirukoは<今は海の上にいるから、国境がない。海の旅を続ければ、国境は一つもない>と言う。読者は国、民族、国籍、領土、性別……世界は線で区別されていることに気付かされる。人々が無意識のうちに線で理解していることに、多和田は忌避感を覚えているのだ。グダニスク、カリーニングラード、リガに寄港し、6人は住民たちと言葉を交わす。<ポーランドにとっては国がなくなるという事件はそれほどめずらしくはない。だから国よりも町の方が信用できる。町というものは石やレンガでできているから、そう簡単には消滅しない。国は書類上の約束事に過ぎない、つまり紙でできている>とポーランド人はアカッシュに話していた。
<方向まで失ってしまった。答えの出ない旅だね>と尋ねる同行者に、Hirukoは<答えは道中、すでに何度も出ているのかもしれない。それが答えだったと気がつくのは過去を振り返ってみた時のこと>と応じる。越境者、散歩者である多和田自身にとって、<旅の目的地は旅すること>なのだ。ラスト近くで<わたし自身が家になる>とHirukoは宣言する。Hirukoの目的地は自分の内側だったのか。
多和田の作品にちりばめられている言葉遊びは、本作で複数の言語がボーダレスになって、遊びの材料になる。後半になって、多和田の詩人としての側面が拡大し、イメージの豊饒な連なりが行間で爆発する。その典型は<鳥が空を飛ぶ。その影が海面に落ちて島になる>である。時空を超えたカルチャー空間が展開し、「惑星ソラリス」、「唐人お吉」やブレヒトについて会話が弾む。
Hirukoとクヌートは恋人同士に見えるが、性の匂いは皆無だった。だが、蜂蜜をきっかけにロマンスに発展する。<おまえは水蛭子(ひるこ)。影っぴらの、しぞこないの長女>と古事記を引用してHirukoを口撃したSusanoまで、神話に則りクシナダヒメの化身と思しき女性に求愛する。読み終えて幸せを味わえた小説だった。