来し方を振り返ると、俺は口舌の徒、嘘つきで、話を盛り続けてきた。〝瞬間ごまかし器〟を自任しているし、周囲を不快にさせたこともある。遠からず地獄に堕ちて閻魔様に舌を抜かれることになるだろう。ブログにも怪しい点だらけだ。「自然との調和」や「生物多様性」を説いているが、果たして本音は?
幼い頃、のどかな園部町(現南丹市)から京都市内に移り住んだ俺は、自宅近くの広大な団地群に未来を見た。<自然>より<人工>が俺に刻まれた瞬間である。上京して新宿の高層ビル群を見上げながら歩いた時も、気分が高揚するのを覚えた。
心身ともボロボロなのに、サラリーマン的な<効率>に縛られている……、そう実感させてくれる小説を読んだ。〝小説界のファンタジシスタ〟こと星野智幸著「植物忌」(2021年、朝日新聞出版)だ。キャッチフレーズに相応しい実験的かつ前衛的な手法を用いた例を挙げれば、読む者を出口のない迷路に閉じ込める「無間道」(07年)だ。単行本と自選コレクションⅢ「リンク」収録時では章立てが入れ替わっていた。星野が<循環>を志向していることの表れといっていい。
俺が現在の日本作家で最も星野に魅せられているのは、<循環>に加え、<アイデンティティーの浸潤>を志向しているからで、今回紹介する「植物忌」にも星野ワールドの神髄が隅々に瑞々しくカラフルに行き渡っている。11作からなる短編集だが、興味深いのは番外編「あまりの種――あとがき」だ。全編にちりばめられた「からしや」と作家自身を擬した青年が登場する。
8作は10年以上も前に発表されており、そのうち5作は植物雑誌「PLANTED」(既に廃刊)に掲載された。同誌の編集長だった縁で、いとうせいこうは帯に<植物へ植物へ、ヒトが溶けて滲み出す。これは多方面的で悦ばしい『変身』の群れ。>と綴っている。 俺は<自然との調和>とかもっともらしく書いてきたが、その前提は<自然とは意識的に育まれ、保護されるべき>との〝思い上がり〟に他ならない。星野にとって人と植物は同じ地平で浸潤し、互いを補完するべき存在なのだ。
♯1「避暑する木」、♯2「ディア・プルーデンス」、♯11「喋らん」はコロナ禍を背景に最近発表された作品だが、他の作品と併せて読んでも違和感はない。「避暑する木」に描かれた人-植物-犬の輪廻、一体化に重なるのが「アルカロイド・ラヴァーズ」(05年)だ。同作では人間への転生は罰でしかない。ビートルズの曲名をタイトルにした♯2「ディア・プルーデンス」はコロナ禍の反映で、疫病が蔓延した世界で引きこもる少女と、人間から青虫に生まれ変わった主人公との距離を描いたメルヘンだ。
人間界は限界を超え、滅びへと向かっている……。これが本作の基調になっている。人間と植物の間で〝綱引き〟が行われるが、植物化した人間は性欲を喪失し、多幸感に耽溺し、死ぬのではなく枯れていく。脳と心臓によって生かされるのではなく、枯れることで子孫を残していくのだ。
人間と植物の境界が曖昧になっていく。♯4「スキン・プランツ」では草木を皮膚に植えるうちに人間が植物化する。植物系というとサラサラ淡泊なイメージだが、本作では濃密で積極的だ。♯10「桜源郷」では近未来、かつての花見を追体験しようとした恋人たちが桜の木に吸い込まれていく。
♯7「ひとがたそう」と♯8「始祖ダチュラ」では浸食してくる植物を食い止めようと結成されたネオ・ガーデナーが奮闘するが、敗色濃厚だ。♯11「喋らん」では喋る植物によって人間が言葉を失い、優位のはずの人間が溶け出して零れていく。狂気、生命の連なり、人間と植物との対話とバラエティーに富んでいるが、ユーモア溢れる民話のような♯9「踊る松」が印象的だった。
星野は現在の日本に危機感を抱き、<主体であることを放棄した社会では、民主主義は維持できない>と考えている。本作のように、個としての人間ではなく、層や相としての植物として連帯して生きることが、日本人に適しているのかもしれない。
幼い頃、のどかな園部町(現南丹市)から京都市内に移り住んだ俺は、自宅近くの広大な団地群に未来を見た。<自然>より<人工>が俺に刻まれた瞬間である。上京して新宿の高層ビル群を見上げながら歩いた時も、気分が高揚するのを覚えた。
心身ともボロボロなのに、サラリーマン的な<効率>に縛られている……、そう実感させてくれる小説を読んだ。〝小説界のファンタジシスタ〟こと星野智幸著「植物忌」(2021年、朝日新聞出版)だ。キャッチフレーズに相応しい実験的かつ前衛的な手法を用いた例を挙げれば、読む者を出口のない迷路に閉じ込める「無間道」(07年)だ。単行本と自選コレクションⅢ「リンク」収録時では章立てが入れ替わっていた。星野が<循環>を志向していることの表れといっていい。
俺が現在の日本作家で最も星野に魅せられているのは、<循環>に加え、<アイデンティティーの浸潤>を志向しているからで、今回紹介する「植物忌」にも星野ワールドの神髄が隅々に瑞々しくカラフルに行き渡っている。11作からなる短編集だが、興味深いのは番外編「あまりの種――あとがき」だ。全編にちりばめられた「からしや」と作家自身を擬した青年が登場する。
8作は10年以上も前に発表されており、そのうち5作は植物雑誌「PLANTED」(既に廃刊)に掲載された。同誌の編集長だった縁で、いとうせいこうは帯に<植物へ植物へ、ヒトが溶けて滲み出す。これは多方面的で悦ばしい『変身』の群れ。>と綴っている。 俺は<自然との調和>とかもっともらしく書いてきたが、その前提は<自然とは意識的に育まれ、保護されるべき>との〝思い上がり〟に他ならない。星野にとって人と植物は同じ地平で浸潤し、互いを補完するべき存在なのだ。
♯1「避暑する木」、♯2「ディア・プルーデンス」、♯11「喋らん」はコロナ禍を背景に最近発表された作品だが、他の作品と併せて読んでも違和感はない。「避暑する木」に描かれた人-植物-犬の輪廻、一体化に重なるのが「アルカロイド・ラヴァーズ」(05年)だ。同作では人間への転生は罰でしかない。ビートルズの曲名をタイトルにした♯2「ディア・プルーデンス」はコロナ禍の反映で、疫病が蔓延した世界で引きこもる少女と、人間から青虫に生まれ変わった主人公との距離を描いたメルヘンだ。
人間界は限界を超え、滅びへと向かっている……。これが本作の基調になっている。人間と植物の間で〝綱引き〟が行われるが、植物化した人間は性欲を喪失し、多幸感に耽溺し、死ぬのではなく枯れていく。脳と心臓によって生かされるのではなく、枯れることで子孫を残していくのだ。
人間と植物の境界が曖昧になっていく。♯4「スキン・プランツ」では草木を皮膚に植えるうちに人間が植物化する。植物系というとサラサラ淡泊なイメージだが、本作では濃密で積極的だ。♯10「桜源郷」では近未来、かつての花見を追体験しようとした恋人たちが桜の木に吸い込まれていく。
♯7「ひとがたそう」と♯8「始祖ダチュラ」では浸食してくる植物を食い止めようと結成されたネオ・ガーデナーが奮闘するが、敗色濃厚だ。♯11「喋らん」では喋る植物によって人間が言葉を失い、優位のはずの人間が溶け出して零れていく。狂気、生命の連なり、人間と植物との対話とバラエティーに富んでいるが、ユーモア溢れる民話のような♯9「踊る松」が印象的だった。
星野は現在の日本に危機感を抱き、<主体であることを放棄した社会では、民主主義は維持できない>と考えている。本作のように、個としての人間ではなく、層や相としての植物として連帯して生きることが、日本人に適しているのかもしれない。