「アリ枕PART3」から。今回のテーマは、なぜキンシャサの奇跡が起きたか……。キーワードは<敬意と畏れ>だ。徴兵拒否で王座を剥奪されたアリは、充実期(25~28歳)の3年7カ月、ブランクを余儀なくされる。明らかにスピードと切れを失っていたが、引き替えに最良の武器を得た。
フォアマンはフレージャーを2回KOで下した〝キングストンの惨劇〟を、「怖かったから早い決着を目指した」と振り返っていた。だが、アリを苦しめたノートンを2回KOで下したこともあり、<敬意と畏れ>が薄らぎつつあった。一方のアリは己の弱さを知っていた……。「何回もつか」の下馬評をアリが覆したのは、神の配剤といえぬこともない。
前稿で紹介した「世界侵略のススメ」で、欧州諸国の民度の高さを痛感した。憎悪の連鎖を断ち、人間の尊厳を守る手段として、死刑廃止が位置付けられている。アイスランドではマネーゲームで国を傾けた財界人たちが国外追放処分になり、ドイツでは首脳が過去の反省を繰り返し表明している。
翻って日本では、甘利前経再相が免罪され、舛添都知事も「法的に問題はない」と逃げ切りを図っている。法の下の正義も、法を超える正義(良心や倫理)も壊れてしまったから、刑事ドラマも総じて薄っぺらい。もちろん、例外はある。「警視庁捜査一課9係」の「追憶の殺人」(6月8日放送)は、人間の心の深奥に迫る秀逸なストーリーだった。
「AXNミステリー」で再放送された「罪悪~ドイツの不条理な物語」(全6話、フェルディナント・フォン・シーラッハ原作)の録画を一気に見た。シーラッハは刑事弁護士としての経験を踏まえたデビュー作「犯罪」(2009年)で、世界で最も注目を浴びる作家になった。別稿(14年6月)で感想を記した「犯罪」と「罪悪」に、微妙なトーンの違いを感じた。ともに原作を読んでいないから、ドラマ限定の話になるが……。
「犯罪」のレオンハルト弁護士は冷静かつ狡猾で、依頼人が無実かどうかなど気に留めず、黒を白と言いくるめる。「罪悪」のクロンベルク弁護士は対照的にナイーブな性格だ。自省と悔恨が表情に滲み、<法を超える正義>に価値を置いている。その信条は<罪を量るのは難しい。人は幸福を追い求めるが、時に道を踏み外す。その時、無秩序(カオス)を防ぐのが法律。しかし法は薄氷、下は冷水。割れれば死ぬ>のラストのモノローグに表れている。
「故殺」=一時的な感情で人を殺すこと、「謀殺」=計画的に人を殺すこと……。後者の方が厳しく裁かれるが、境界は必ずしも明快ではない。故殺であれば正当防衛と見做され、無罪判決を勝ち取ることも可能だ。第1話「DNA」で、クロンベルクは夫婦の贖罪意識に踏み込めず、〝法という薄氷〟が割れてしまった。逆に、第5話「清算」では、結審後に目の当たりにした真実で、勝利の美酒はたちまち苦い泡になる。
第2話「ふるさと祭り」は駆け出しの頃のエピソードで、クロンベルク自身の青春の痛みが描かれている。親友ヤコブとともに集団暴行犯の弁護団に加わったクロンベルクだが、自らの提案が結果として、法の下、そして法を超える正義を併せて汚すことになった。容疑者である楽団員たちは普通の家庭人で犯行時、ペイントで素顔を隠していた。集団に埋没して少女を暴行する行為に重なったのがファシズムだ。匿名性に紛れ込めば人が悪魔になり得ることを、作者は示したかったに違いない。
美術教師の死を巡る第3話「イルミティ」で、クロンベルクは友人の依頼で寄宿学校の弁護を担当した。近い将来の悲劇を見越したクロンベルクは結審後、禁忌を破る。〝家族という牢獄〟から天才少年を救おうと試みたのだ。第4話「間男」は「藪の中」(芥川龍之介)を彷彿させる内容で、中年夫婦のセックスが描かれる。クロンベルクは殺人未遂犯の妻(弁護士)にあしらわれた感もあるが、結末は冷水ならぬ暖流だった、
全編を通して感じたのは、クロンベルク役のモーリッツ・ブレイブトロイを筆頭に、俳優陣の表現力だ。登場人物の心象風景も巧みにちりばめられていたが、典型的なのが第6話「雪」だ。売人の罪を被る老人、別れが運命付けられたレバノン人とポーランド人の若い男女が心を紡ぐ。余韻が去らない物語だった。
司法と警察による容疑者、被疑者への温かさの背景にあるのは、人間の尊厳という価値だ。警察と刑務所の在り方こそ、国の自由と民主主義を量る物差しだ。日本とドイツとの差に暗澹たる気分にさせられたドラマだった。
フォアマンはフレージャーを2回KOで下した〝キングストンの惨劇〟を、「怖かったから早い決着を目指した」と振り返っていた。だが、アリを苦しめたノートンを2回KOで下したこともあり、<敬意と畏れ>が薄らぎつつあった。一方のアリは己の弱さを知っていた……。「何回もつか」の下馬評をアリが覆したのは、神の配剤といえぬこともない。
前稿で紹介した「世界侵略のススメ」で、欧州諸国の民度の高さを痛感した。憎悪の連鎖を断ち、人間の尊厳を守る手段として、死刑廃止が位置付けられている。アイスランドではマネーゲームで国を傾けた財界人たちが国外追放処分になり、ドイツでは首脳が過去の反省を繰り返し表明している。
翻って日本では、甘利前経再相が免罪され、舛添都知事も「法的に問題はない」と逃げ切りを図っている。法の下の正義も、法を超える正義(良心や倫理)も壊れてしまったから、刑事ドラマも総じて薄っぺらい。もちろん、例外はある。「警視庁捜査一課9係」の「追憶の殺人」(6月8日放送)は、人間の心の深奥に迫る秀逸なストーリーだった。
「AXNミステリー」で再放送された「罪悪~ドイツの不条理な物語」(全6話、フェルディナント・フォン・シーラッハ原作)の録画を一気に見た。シーラッハは刑事弁護士としての経験を踏まえたデビュー作「犯罪」(2009年)で、世界で最も注目を浴びる作家になった。別稿(14年6月)で感想を記した「犯罪」と「罪悪」に、微妙なトーンの違いを感じた。ともに原作を読んでいないから、ドラマ限定の話になるが……。
「犯罪」のレオンハルト弁護士は冷静かつ狡猾で、依頼人が無実かどうかなど気に留めず、黒を白と言いくるめる。「罪悪」のクロンベルク弁護士は対照的にナイーブな性格だ。自省と悔恨が表情に滲み、<法を超える正義>に価値を置いている。その信条は<罪を量るのは難しい。人は幸福を追い求めるが、時に道を踏み外す。その時、無秩序(カオス)を防ぐのが法律。しかし法は薄氷、下は冷水。割れれば死ぬ>のラストのモノローグに表れている。
「故殺」=一時的な感情で人を殺すこと、「謀殺」=計画的に人を殺すこと……。後者の方が厳しく裁かれるが、境界は必ずしも明快ではない。故殺であれば正当防衛と見做され、無罪判決を勝ち取ることも可能だ。第1話「DNA」で、クロンベルクは夫婦の贖罪意識に踏み込めず、〝法という薄氷〟が割れてしまった。逆に、第5話「清算」では、結審後に目の当たりにした真実で、勝利の美酒はたちまち苦い泡になる。
第2話「ふるさと祭り」は駆け出しの頃のエピソードで、クロンベルク自身の青春の痛みが描かれている。親友ヤコブとともに集団暴行犯の弁護団に加わったクロンベルクだが、自らの提案が結果として、法の下、そして法を超える正義を併せて汚すことになった。容疑者である楽団員たちは普通の家庭人で犯行時、ペイントで素顔を隠していた。集団に埋没して少女を暴行する行為に重なったのがファシズムだ。匿名性に紛れ込めば人が悪魔になり得ることを、作者は示したかったに違いない。
美術教師の死を巡る第3話「イルミティ」で、クロンベルクは友人の依頼で寄宿学校の弁護を担当した。近い将来の悲劇を見越したクロンベルクは結審後、禁忌を破る。〝家族という牢獄〟から天才少年を救おうと試みたのだ。第4話「間男」は「藪の中」(芥川龍之介)を彷彿させる内容で、中年夫婦のセックスが描かれる。クロンベルクは殺人未遂犯の妻(弁護士)にあしらわれた感もあるが、結末は冷水ならぬ暖流だった、
全編を通して感じたのは、クロンベルク役のモーリッツ・ブレイブトロイを筆頭に、俳優陣の表現力だ。登場人物の心象風景も巧みにちりばめられていたが、典型的なのが第6話「雪」だ。売人の罪を被る老人、別れが運命付けられたレバノン人とポーランド人の若い男女が心を紡ぐ。余韻が去らない物語だった。
司法と警察による容疑者、被疑者への温かさの背景にあるのは、人間の尊厳という価値だ。警察と刑務所の在り方こそ、国の自由と民主主義を量る物差しだ。日本とドイツとの差に暗澹たる気分にさせられたドラマだった。