自称〝日本一の薄着男〟も、ユニクロのヒートテックのありがたさを実感する日々だ。仕事先では愛煙家が寒空の下、駐車場脇に設けられた喫煙スペースで震えながら煙草を吸っている。煙草とは無縁の俺だが、<禁煙ファシズム>の徹底ぶりには不気味さを覚える。と同時に、ある疑問が湧いてきた。健康志向の日本人は、どうして放射能に鈍感なのだろう。
最前線で放射能と闘った吉田福島原発前所長が、自らの食道がんを公表した。チェルノブイリ後の25年を検証すれば、吉田氏ほど短期間に発症しなくても、若い世代が放射能に蝕まれていく可能性は極めて高い。今のうちに抗議の声を上げておかないと、「原発と病状には因果関係なし」と、政府は棄民の伝統に則り患者を見捨てるはずだ。
さて、本題。「ムーア人の最後のため息」(95年、サルマン・ラシュディ/河出書房新社)を読了した。2段組み450㌻の難解かつ饒舌な長編で、贅を尽くした巨大なデコレーションケーキを食べ終えた気分だ。パティシエ(作者)は「このフルーツは○○産です」とか、「クリームは特殊な製法で作りました」とか教えてくれるが、貧乏舌の俺にはさっぱりだ。端折るポイントを見つけないとゴールに辿り着けない。
1990年前後、個人的に文学の発見が相次いだ。「悪童日記3部作」(アゴタ・クリストフ)、「蟻」(ベルナール・ウェルベール)、そして「真夜中の子供たち」(ラシュディ)である。3人の作家は各の方法論で、21世紀に至る文学の可能性を提示した。当ブログではウェルベールの3作――「蟻の革命」、「タナトノート」、「われらの父の父」――について記している。
「真夜中の――」は体制批判と見做され、ラシュディはインド出国を余儀なくされた。本作はその続編と位置付けられている。骨太のドラマトゥルギーをベースにマジックリアリズムを進化させたラシュディは、「悪魔の詩」騒動がなければノーベル賞を受賞していただろう。彼の渡英が、インド系英文学隆盛の導火線になる。
ラシュディのバックボーンは明晰な歴史認識と抵抗精神だ。「真夜中の――」の史実にフィクションを絡める手法は、とりわけ英語圏で大きな影響を与える。代表例を挙げるなら「フォレスト・ガンプ」(86年)だ。ちなみに94年に映画化された同作の脚本を書いたエリック・ロスは「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(08年)も担当している。ロスがラシュディにインスパイアされたことは明らかで、ブラッド・ピット演じるバトンは老人として生まれ、赤ん坊として死ぬ。「ムーア人――」の主人公モラエス・ゾゴイビー(通称ムーア)は、2倍のスピードで成長するという設定だ。倍速の時の流れが、ドラスティックなストーリーを加速させている。
インド近現代史と宗教対立を把握していないから、寓意と仕掛けに満ちた物語に入り込むのは困難だった。ムーアの一族はバスコ・ダ・ガマに遡るポルトガル系インド人である。ヒンズー教、イスラム教、シーク教が角突き合わせるインドで、香料を扱って財を成したムーアの一族はキリスト教徒である。母オローラは15歳で、使用人であるユダヤ教徒のエイブラハムと恋に落ちる。父にとってユダヤ人コミュニティーとの決別を意味する婿入りだった。
母を含め一族は積極的に政治に関わる。反英からマルクス主義まで様々な勢力が蠢く中、ある者は信念を貫いて獄に繋がれる。シンボリックな存在としてガンジー父娘やネールとやり合った母だが、絵で天才ぶりを発揮していた。「ムーア人の最後のため息」とは、母が息子をモデルに描いた遺作のタイトルである。
主人公の名の由来になった<ムーア人>だが、特定の民族や教徒を指す言葉ではないらしい。〝境界線の外の人〟というイメージは、若さと老いを短期間で経験し、常に居心地の悪さに苛まれている主人公に重なっている。生まれつき一塊の拳状である右手から強烈なパンチが放たれるという設定に、欠落こそが武器になりうるという逆説が込められていた。
「スラムドッグ$ミリオネア」のサントラをBGMに本作を読んでいた。ページを繰る指を加速させてくれたエキゾチックでポップな音は、次第にストーリーと合わなくなる。愛の遍歴を経て30代半ばで老いを纏ったムーアは死を意識し、事業を世界規模に拡大した父は鈍色の光を放つ悪魔になった。巨大なデコレーションケーキの底に仕込まれていたのは、宿命的な家族の相克、絶望的な愛と狂気が育んだ猛毒といえるだろう。日本人女性が登場するラストは悲痛なトーンを帯びていた。
消化不良は否めないが、俺は今、「55歳になってもラシュディを読めた」という自己満足に浸っている。そうは言っても、読書とは試練ではなく娯楽のはずだ。当分は自分の背丈に合った本を楽しむことにする。
最前線で放射能と闘った吉田福島原発前所長が、自らの食道がんを公表した。チェルノブイリ後の25年を検証すれば、吉田氏ほど短期間に発症しなくても、若い世代が放射能に蝕まれていく可能性は極めて高い。今のうちに抗議の声を上げておかないと、「原発と病状には因果関係なし」と、政府は棄民の伝統に則り患者を見捨てるはずだ。
さて、本題。「ムーア人の最後のため息」(95年、サルマン・ラシュディ/河出書房新社)を読了した。2段組み450㌻の難解かつ饒舌な長編で、贅を尽くした巨大なデコレーションケーキを食べ終えた気分だ。パティシエ(作者)は「このフルーツは○○産です」とか、「クリームは特殊な製法で作りました」とか教えてくれるが、貧乏舌の俺にはさっぱりだ。端折るポイントを見つけないとゴールに辿り着けない。
1990年前後、個人的に文学の発見が相次いだ。「悪童日記3部作」(アゴタ・クリストフ)、「蟻」(ベルナール・ウェルベール)、そして「真夜中の子供たち」(ラシュディ)である。3人の作家は各の方法論で、21世紀に至る文学の可能性を提示した。当ブログではウェルベールの3作――「蟻の革命」、「タナトノート」、「われらの父の父」――について記している。
「真夜中の――」は体制批判と見做され、ラシュディはインド出国を余儀なくされた。本作はその続編と位置付けられている。骨太のドラマトゥルギーをベースにマジックリアリズムを進化させたラシュディは、「悪魔の詩」騒動がなければノーベル賞を受賞していただろう。彼の渡英が、インド系英文学隆盛の導火線になる。
ラシュディのバックボーンは明晰な歴史認識と抵抗精神だ。「真夜中の――」の史実にフィクションを絡める手法は、とりわけ英語圏で大きな影響を与える。代表例を挙げるなら「フォレスト・ガンプ」(86年)だ。ちなみに94年に映画化された同作の脚本を書いたエリック・ロスは「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(08年)も担当している。ロスがラシュディにインスパイアされたことは明らかで、ブラッド・ピット演じるバトンは老人として生まれ、赤ん坊として死ぬ。「ムーア人――」の主人公モラエス・ゾゴイビー(通称ムーア)は、2倍のスピードで成長するという設定だ。倍速の時の流れが、ドラスティックなストーリーを加速させている。
インド近現代史と宗教対立を把握していないから、寓意と仕掛けに満ちた物語に入り込むのは困難だった。ムーアの一族はバスコ・ダ・ガマに遡るポルトガル系インド人である。ヒンズー教、イスラム教、シーク教が角突き合わせるインドで、香料を扱って財を成したムーアの一族はキリスト教徒である。母オローラは15歳で、使用人であるユダヤ教徒のエイブラハムと恋に落ちる。父にとってユダヤ人コミュニティーとの決別を意味する婿入りだった。
母を含め一族は積極的に政治に関わる。反英からマルクス主義まで様々な勢力が蠢く中、ある者は信念を貫いて獄に繋がれる。シンボリックな存在としてガンジー父娘やネールとやり合った母だが、絵で天才ぶりを発揮していた。「ムーア人の最後のため息」とは、母が息子をモデルに描いた遺作のタイトルである。
主人公の名の由来になった<ムーア人>だが、特定の民族や教徒を指す言葉ではないらしい。〝境界線の外の人〟というイメージは、若さと老いを短期間で経験し、常に居心地の悪さに苛まれている主人公に重なっている。生まれつき一塊の拳状である右手から強烈なパンチが放たれるという設定に、欠落こそが武器になりうるという逆説が込められていた。
「スラムドッグ$ミリオネア」のサントラをBGMに本作を読んでいた。ページを繰る指を加速させてくれたエキゾチックでポップな音は、次第にストーリーと合わなくなる。愛の遍歴を経て30代半ばで老いを纏ったムーアは死を意識し、事業を世界規模に拡大した父は鈍色の光を放つ悪魔になった。巨大なデコレーションケーキの底に仕込まれていたのは、宿命的な家族の相克、絶望的な愛と狂気が育んだ猛毒といえるだろう。日本人女性が登場するラストは悲痛なトーンを帯びていた。
消化不良は否めないが、俺は今、「55歳になってもラシュディを読めた」という自己満足に浸っている。そうは言っても、読書とは試練ではなく娯楽のはずだ。当分は自分の背丈に合った本を楽しむことにする。