愛知万博が始まった。京都育ちの俺にとって、万博といえば1970年の大阪である。混雑ぶりは常軌を逸していた。広場の拡声器から、三波春夫の間延びしたテーマソングが流れていた。座り込んで弁当を食べる家族連れを縫うように、フライドチキンを頬張ったカップルが通り過ぎていく。新しさと古さのミスマッチが至る所で見られた。
人気パビリオンだけでなく、トイレにも人の縄が巻きついていた。都市近郊でさえ汲み取り式が残っていた時代だから、洋式の水洗トイレに戸惑うおばあさんが続出したのも無理はない。進歩の幻想に踊る側と、進歩の成果を掠め取る側……。両者の絶望的な距離を知らしめたのが大阪万博だった。
よど号事件が起きたのは、35年前のこの日(31日)である。シリアスなのか茶番なのか、中学生の俺には理解出来なかった。今でこそ北朝鮮亡命はブラックジョークでしかないが、当時のイメージは違っていた。軍事独裁の韓国よりましで、どこか謎めいた国という感じだった。
赤軍派のリーダーが自らを重ねた「あしたのジョー」は、1月から十数号分、力石と激闘を繰り広げていた。力石の死は社会的事件になり、寺山修司を発起人に葬式が営まれたほどである。少年マガジンの黄金時代で、中学生には「巨人の星」派の方が多かった。山上たつひこの背筋が凍るポリティカルフィクション、「光る海」が連載されたのもあの年だった。
学校では推理小説が流行っていた。V・ダイン、E・クィーン、A・クリスティが御三家である。深夜放送もブームで、関東の局にチューニングするようになった。亀渕ニッポン放送社長のパーソナリティー時代も知っている。選曲のセンスが良く、リスナーに優しいDJだった。亀ちゃんは俺にとり「洋楽の先生」なのである。ラジオで頻繁に流れていたのは、1910フルーツガムカンパニーの「トレイン」、マッシュマッカーンの「霧の中の二人」、ショッキングブルーの「ビーナス」、ルー・クリスティーの「魔法」、エジソンライトハウスの「恋のほのお」etc……。日本だけでヒットした曲も少なくなかった。
ビートルズは4月に解散を発表したが、1世代下なのでショックはなかった。「ウッドストック」でフーに驚き、友達に借りた「クリムゾン・キングの宮殿」のテープを聴いてぶっ飛んだのもあの年だった。発表時にロックシーンのレベルを超越していた点でいうと、「クリムゾン――」はドアーズの1stと並ぶ金字塔だと思う。
吉田拓郎のデビューは6月だった。「イメージの詩」の衝撃で一気にファンを獲得した。振り返ると、当時の中学生の音楽遍歴は妙な感じである。多くの者はポップスから日本のフォークを経て、三人娘(小柳ルミ子、南沙織、天地真理)に転向した。とりわけ真理ちゃんの人気は絶大で、公演後、京都駅のホームまで追っかける少年の群れに、俺の級友もいた。大人たちが眉を潜めたのは言うまでもない。
ということで、今後もタネが尽きたら、プレイバック作戦でいくことにする。
さて、W杯予選のバーレーン戦。1―0の予想は当たったが、セットプレーではなくオウンゴールだった。結果オーライってとこか。ジーコがしくじれば、サッカーのみならず自由放任主義の否定に繋がりかねないので、とりあえず応援している。ついでに、将棋のNHK杯決勝。新鋭の山崎六段が羽生4冠を鮮やかに逆転し、初優勝を飾った。朝日オープンの決勝五番勝負でも、この二人が激突する。山崎六段といい渡辺竜王といい、現状では棋界の五指に入る実力者なのに、順位戦はともにC級1組。どうも釈然としない。