弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

永井陽之助先生

2010-11-02 21:37:15 | 歴史・社会
私は昭和42年(1967年)に東京工大に入学しました。入学と同時にサッカー部に入部しましたが、1年の途中でやめています。
東京工大は工科大学ですが、教養課程の社会科学・人文科学の教授陣に有名人が多数在籍していました。宮城音弥、伊藤整、川喜田二郎、永井道雄、鶴見俊輔の各先生などです。私が在籍中に江藤淳先生も着任されました。永井陽之助先生もそのお一人です。
当時の東工大では、1年生のときに「総合講義」という少人数講義を受けることになっていて、1年生の学級割りもその総合講義で同じ授業を受ける人たちで構成されていました。上記の有名な先生方もこの総合講義を受け持たれていました。

私は永井陽之助教授の講義を受けました。
永井先生は当時、現実主義の政治学者と呼ばれ、高坂正堯先生と並び称されていました。
たしか40人弱の少人数クラスだったと思います。毎週1回の永井先生の講義は魅力に富んでいて、私たちは至極まじめに講義を聞いていました。永井先生の「平和の代償 (中公叢書)」などを題材にした講義です。

ところがある日、先生が教室に入ってくるとえらく立腹されています。「お前たちはけしからん」とおっしゃるのです。
私はわけが分かりませんでした。毎回の授業ではみな熱心に授業を聞いているのに。
そのうち理由が分かりました。「お前たちはただ授業を聞くばかりで、学生の方から何も発信がないじゃないか」ということらしかったのです。
そして、「いついつまでに中国の文化大革命について、(原稿用紙30枚だか40枚だかの)レポートを提出するように」との課題を出されたのです。
当時の中国では文化大革命が現在進行中であり、その実態はまだ謎のままでした。本屋で購入できる本を何冊か仕入れ、わからないなりにその実態に迫ろうとしてレポートを執筆した記憶があります。その後、文化大革命の実態が徐々に明らかになっていきましたが、レポート執筆時の予想からは大きく外れなかったように思います。当時東京外大の助教授(?)だった中嶋嶺雄先生の著書が印象に残りました。

私は、大学1年の時に永井陽之助先生の授業を受けたことを内心誇りに思っているのですが、やはりただ講義を聞いていただけでは自分の血肉となるには至らず、今ではどんなことを教わったのか記憶から飛んでいます。

その永井先生のお名前を久しぶりに聞いたのは今年の6月です。管直人首相が“自分は永井陽之助先生の弟子”と称し、それに対してみんなの党の渡辺喜美代表が“自分こそが永井先生の弟子であり、管直人氏の言説からはとても永井先生の弟子とはいえない”として「“まな弟子”対決」を演じたというのです。例えばこちらの記事。

そこで、“永井陽之助”と“管直人”でググってみました。
そうしたら、びっくりするような記事が見つかったのです。
メールマガジン 探検!地方自治体へ~川崎市政を中心に~という記事の中です。
『筆者は1967年4月、東工大に入学した。』
『永井陽之助氏の「総合講義第一」を取ったサッカー部の友人は、「文化大革命」のレポート40枚以上に仰天し、その取組でクラブをやめてしまった。筆者は若手助教授の「哲学」を選択したおかげで、サッカーを続けることができた!』

待ってください。
「1967年東工大入学」「永井陽之助教授の授業を受け、文化大革命のレポートを書いた」「サッカー部をやめた」という点では、私のことを言っているようです。サッカー部をやめた理由は異なりますが。
メルマガの主の名前を探してみると、吉井俊夫さんとあります。サッカー部の同級生に確かに吉井さんがいました。

そこで吉井さんにメールを出してみました。「ひょっとして私のことですか?」
さっそく返事をもらいました。「そうです。内藤さんのことです。」いやよくぞ40年前の私のエピソードを覚えていてくれたものです。

その吉井さんがこの10月、私の事務所を訪ねてくれました。
まさに40年ぶりの再会です。
吉井さんは大学でサッカー部を続け、社会人になってからは地域の少年サッカークラブ代表を長く務めたそうです。私は大学1年でやめたきり、ときどき職場のサッカー大会に出場した程度ですが。
吉井さんは学部の高学年のときにゼミ形式で永井陽之助教授の教えを受けています。私は1年で授業を受けただけですが。吉井さんが受けたゼミ形式講座に、渡辺喜美氏がモグリ学生として参加していたかもしれません。
吉井さんは半導体の研究開発に従事されました。私は昭和61年から9年ほどシリコンウェーハの製造会社で技術営業にも従事したので、吉井さんが勤める半導体メーカーにもおじゃましたことがあります。
吉井さんは現在知財関係の仕事に就かれており、私は特許事務所をやっています。
ということで、サッカー部での付き合いはほんの数ヶ月、その後40年のブランクがあったにもかかわらず、ずいぶんと共通のものを感じたのでした。

管直人首相は東工大で私の2年先輩であり、私は東工大在学中から管直人氏の名前を知っていました。当時は大学紛争の真っ盛りであり、東工大も全学闘争委員会(全闘委)の主導で全学ストに突入していました。そんな中、管直人氏は、全共闘系でも民青系でもないグループを組織し、学園紛争に関与していたのです。今年6月に管直人氏は元全共闘かで書いたとおりです。
当時、私は管直人氏の名前を知っていた程度ですが、吉井さんはもっと詳しくその目で見ておられました。★東工大紛争の中の管直人氏 ~首相就任に寄せて~★ 第127号 2010/6/1に書かれています。
全学ストに突入した後、全闘委は独断で校門をバリケード封鎖して教官の出入りを拒否しました。それに対して菅さんのグループは学生大会で「スト継続、バリケード封鎖解除」を提案し、何とそれが可決してしまったのです。
『この学生大会でも管氏は何度も壇上に登って討論した。全闘委は前の席を占め、激しいヤジが飛ぶのであるが、「何度でも出る」と臆せず演説をしていた。一方、全闘委は入替り、立替りである。従って、管氏の姿は賛否にかかわらず、印象として強く残る。帰宅できず、夜明かしで親しい仲間と話したが、みんな「管さん」と呼ぶようになっていた。』
うーん、私の記憶にはありませんでしたが、当時の菅さんはそんなに格好良かったのですか。

ところで、吉井さんによると、『最近の政治情勢の中で永井先生の「平和の代償」を読み直してみると、示唆を受けることがある』とのことでした。えっ、40年も前に当時の「現代政治学」について執筆された論文にですか?
そこで永井先生の「平和の代償 (中公叢書)」を読み直してみることにしました。もう私の手許にはありません。アマゾンで調べたら古本で5500円もするではないですか。しょうがないので図書館で借りました。この件はまた別の機会に。
コメント (1)
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