弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

オリンピックのヨット種目

2008-08-28 22:55:31 | Weblog
今回の北京オリンピックで、セーリングでは女子470級の近藤・鎌田ペアが、「コンカマ」の愛称で試合前からメダルを期待されて騒がれていました。残念ながらコンカマペアは14位の成績に終わりましたが、一方では男子470級で、松永・上野ペアが7位に入賞する好成績を上げました。

ヨットレースは、テレビでほとんど放映されません。しかし男子470級の最終第11レースは、NHK朝の番組で録画放映していたので、見ることができました。松永・上野組は、10レースまでで10位に付け、最終レース(上位10チームのみ出艇)に出艇がかないました。そしてその最終レースで、見事2位でゴールし、総合成績を7位まで押し上げたのです。


最近のオリンピックでの成績を紐解くと、女子470級での重由美子・木下アリーシア組の成績が光ります。
1992年バルセロナオリンピック-5位。
1996年アトランタオリンピック-銀メダルを獲得。
2000年シドニーオリンピック-8位。
3大会に連続して出場し、このような成績でした。

今回北京オリンピックでの男女470級の成績を見ると、重・木下ペアの成績がどれほど大変なものか、わかろうかというものです。

ところで、今回男子で出場した松永鉄也、3大会に出場した女子の重由美子、木下アリーシアの3氏については、わが家族にとってとても懐かしい人たちなのです。


昭和61年から平成7年まで、わが家は山口県にある瀬戸内海沿岸の町に住んでいました。その町にはたまたまジュニアヨットクラブがありました。子ども3人が小学校時代であり、そのクラブのお世話になったのです。毎週日曜にクラブに出かけ、子ども達がヨットの練習をします。
小学生が乗るヨットというのは、OP(オプティミストディンギー)級といい、一人乗りです。小さい子は小学校2年から、中学3年生までが対象です。一人で乗り込み、誰の助けも借りずにヨットを操り、沖合いで練習し、また戻ってきます。
小学生が操るのですから、大人から見たらたらいのような船体で、1本のマストに1枚のセールです。参考に当時の写真を載せます。
  

OP級にもレースがあります。上手になってくるとレースを目指します。
わがクラブが定常的に参加するレースが年に3レースありました。そのうち、8月に毎年佐賀県唐津で「西日本OP級ヨット選手権大会」という大会が開かれました。唐津市には佐賀県ヨットハーバーという施設があり、そこで寝泊まりしながらレースに参加するのです。レース艇は持参で、親たちがマイカーの屋根にヨットの船体を積んで参集します。わが家は1台の車に2台のヨットを積んで出かけたことがありました。
その佐賀県ヨットハーバーで、参加するわれわれのお世話をしてくれるのが、何とあの重由美子さんと木下アリーシアさんなのです。お二人はハーバーの職員です。ちょうど、バルセロナの後、アトランタの前あたりの時期でした。朝食で食堂に集まると、木下アリーシアさんが一人一人に味噌汁を注いでくれるのです。オリンピック選手に注いでもらう味噌汁は美味でした。
朝、我々が起床して海を見ると、沖合いから帰ってくるヨットがあります。重さんと木下さんは、われわれの朝食の前に一練習を終えてきているのです。
あのあと、重さんと木下さんはアトランタで銀メダルを取ったのですね。

その当時、西日本のOP界には怪物のOPセーラーがいました。それが誰あろう、北京で470級7位に入った松永鉄也君です。琵琶湖ジュニアに所属し、抜群のセーリング技術で、西日本に敵はいませんでした。ご父君がやはりヨット好きで、それが縁で鉄也君もヨットを始めたのでしょう。唐津で、松永君のお父さんが雑談しているのを横で聞いていたことがあります。
その松永君が、OPだけでヨットを止めるのではなく、ずっとヨットを続けていたのですね。そして今年、同志社大学のヨット部で一緒だった上野さんとのペアで北京に出場し、7位に入賞したというわけです。

ところで、女子470級のコンカマの一人、近藤愛さんについては、OPをやっていたうちの娘が「OPの試合に出ていた」と覚えていました。調べてみると、近藤さんは中学の頃葉山マリーナブルーアンカージュニアに所属し、全日本OP選手権(エクセル)の女子の部、広島で毎年行われたデンマークカップでも上位におり、全日本オープン(エクセル)では優勝していました。

上で紹介した重由美子さんですが、3度のオリンピック出場で現役を退いたわけではありませんでした。その後、イングリング級という3人乗りの種目に変更し、アテネと北京を目指していたのでした。アテネのとき、重さんは名倉海子(高知県夜須町役場)、中村光恵(山口県スポーツ交流村)の両名と組みました。この中村光恵さん、山口県での私と同じ会社に勤務していたという奇遇があります。やはり470級でのオリンピックを目指してその会社を辞め、その後、山口県スポーツ交流村に就職しています。この山口県スポーツ交流村こそ、わが家の子ども達がお世話になったジュニアヨットクラブの現在の所在地です。
コメント (2)
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