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吉田茂の自問「日本外交の過誤」

2008-08-21 22:06:32 | 歴史・社会
先日、服部 龍二著広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書 1951)を紹介しました。
この本の中では、多くの文献が参照されるのですが、第二次大戦当時に政治の現場で携わった人たち自身が書いた書物が多かったのが印象的でした。
その中には、石射猪太郎著「外交官の一生 改版 (中公文庫 B 1-49 BIBLIO20世紀)」、幣原喜重郎著「外交50年 (中公文庫)」などが含まれます。
また、原田熊雄述「西園寺公と政局9冊セット」も多く引用されていました。今から30年以上前に書かれた書物では、参考文献として唯一この「西園寺公と政局」が使われているような時代がありました。最近はそのような状況がありませんが、多くの文献が発掘されたためでしょうか。この本が1982年に岩波書店から復刻出版があったとき、私はこれを衝動で購入し、その後書棚に鎮座したままです。懐かしく思って今回開けてみたら、だいぶん黄色く変色していました。

そして以下の文献も「広田弘毅」に紹介されていましたように思います。
吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」
小倉 和夫
藤原書店

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1951年、首相だった吉田茂が外務省の課長に対し、満州事変から終戦までの日本外交について検証し、取り纏めるように指示します。その結論は、「日本外交の過誤」と名づけられた50ページほどの「調書」にまとめられます。この調書には、外務省の幹部だった人たちにインタビューしたコメント集、それと調書の土台となった「作業ペーパー」が附属しています。
本の紹介によると、これらの文書は、2003年4月、50年の眠りからさめて外務省によって公表されたとあります。それまでは外交秘密として秘匿されていたのでしょう。そしてこの文書をもとにして、小倉和夫氏が上記の著作を出版したのです。

そこで、購入して読んでみました。
著者の小倉氏は、1938年生まれ、外交官を務め、フランス大使などを歴任し、2002年に退官した人です。
最初のうちはとまどいました。著書のうち、どの部分が「調書」そのもので、どの部分が著者小倉氏の意見なのかがよくわからなかったのです。結局、明らかになったのは、各章ごとに、まず小倉氏の意見が延々と述べられ、章の末尾に「調書」の該当部分が記載されているのです。
普通、このような書物を書くのであれば、まず「調書」の記述を紹介し、その後で著者による解釈や意見が述べられるものでしょう。この本ではそれが逆になっているのです。

そこで、途中で中断し、まずは各章章末の「調書」本文を通読し、さらに巻末の「諸先輩の談話」「作業ペーパー」抜粋を読むことにしました。「作業ペーパー」は「事実ないし経緯に関する部分」と「批判の部分」に分けて記述しています。
その「作業ペーパー」ですが、「ここでは『作業ペーパー』の『批判』の部分で『調書』と比べて、ニュアンスの異なる部分のうち、特に興味あると思われる部分を事項別に左記に収録した」ということで、「作業ペーパー」全体のうち、ごく一部のみしか収録されていないことがわかりました。せっかく、全体で300ページにわたる書物に取りまとめ、定価で2400円もの値段を付けるのですから、元となる「作業ペーパー」については全文を収録して欲しかったものです。

「調書」を通読しましたが、特に目新しい情報や見解が示されているということではないようです。1951年当時、外務省の若手(課長)クラスが、満州事変から終戦までの日本外交をどのように見ていたか、という観点での文献ということになるのでしょう。

「諸先輩の談話」では、堀田正昭、有田八郎、重光葵、佐藤尚武、林久治郎、芳沢謙吉の各氏に対するインタビュー結果が収録されています。このインタビュー結果の中に、「ほほう」という発言がいくつか含まれていました。また別の機会に紹介したいと思います。

そして、また最初に戻って、著者の小倉氏による記述(これが大部分を占める)を含めて通読しました。
折角、「50年の眠りからさめた外交文書」を紹介するのですから、著者のコメントは、その外交文書の解説及び若干の解釈に留めておくべきだったでしょう。書物のほとんどが、著者である小倉氏の自説記述に終始していたのが残念でした。
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