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服部龍二著「広田弘毅」

2008-08-14 23:27:09 | 歴史・社会
広田弘毅というと、まずは「東京裁判で、文官としてただひとり絞首刑に処せられた人」、「二・二六事件の後に首相となり、在任中に『軍部大臣現役武官制』が復活した」という2点で記憶があります。その広田弘毅について、以下の本を読みました。

この本は、広田弘毅について書かれたものですが、広田弘毅を通じてあの時代の日本史を再認識するという成果が得られました。
広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書 1951)
服部 龍二
中央公論新社

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広田弘毅という人は、福岡県で石屋のせがれとして育ち、玄洋社という団体の世話で一高・東大を出て外務省に入省します。
外務省内で幣原喜重郎が主流であった頃はその幣原氏と距離を置いており、決して主流には乗っていませんでしたが、満州事変の後、広田が駐ソ大使を勤め上げた頃に、定まらない日本の政治潮流がいつしか広田を時代の主役に押し上げようとしていました。

1933年9月、広田は斉藤内閣の外相に就任します。
1935年、日中双方の在外公館が、それまでの公使館から大使館に昇格します。広田が推し進めた「日中提携」の成果です。これは、日本政府が蒋介石政権を一人前と認めた証でもあります。
しかしこれは、日本陸軍の反対を押し切っての決定でした。これ以降、陸軍は広田外交に敵対するようになります。陸軍は、すでに成立している満州国と陸続きの華北に日本傀儡政権を樹立することを画策します。これによって日中間は険悪になるのですが、これに対し広田外相は「広田三原則」を中国に示します。広田三原則は、中国に一方的に要求する内容であり、中国がとても応じられないものでした。広田外相が強硬な陸軍の姿勢に屈服したのです。
広田の第1期外相時代はこのようにして終わりました。

1936年2月26日、二・二六事件が勃発します。
事件で襲撃された岡田啓介首相に代わり、広田が首班に指名されます。広田内閣時代が始まります。
組閣に当たって、陸軍は徹底的に横やりを入れます。まず「吉田茂外相はダメ」、司法大臣、拓務大臣候補も拒否します。政党出身者も4名は不可、2名までと主張しましたが、これは広田外相が峻拒しました。

戦前の日本で、陸軍大臣・海軍大臣には軍人が就任していました。ただし、広田内閣の前までは、軍人といっても予備役でもOKだったのです。
ところが広田弘毅内閣時代、ときの寺内寿一陸軍大臣が海軍大臣と共同で、「軍部大臣現役武官制」の復活を提議するのです。二・二六事件の後始末で、事件の黒幕と見られた陸軍軍人の荒木貞夫や真崎甚三郎は予備役に編入されました。これらの人たちが政治に復活するのを防止するため、というのが「軍部大臣現役武官制」とする表向きの理由でした。
そして広田首相は、「軍部大臣現役武官制」復活を認めてしまうのです。これ以降、陸軍としては、自分の思い通りに行かない内閣については、陸軍大臣が辞職し、その後釜を推薦しないだけでいいのです。内閣を自由に崩壊させる制度が完成しました。

広田内閣は1936年11月25日に日独防共協定を締結しました。
1937年1月、国会では浜田国松議員と寺内寿一陸軍大臣の間に「腹切り問答」があり、広田内閣はこれを原因として総辞職してしまいます。

広田内閣総辞職の後、組閣の大命は宇垣一成に降りますが、陸軍がこれに反発、陸軍大臣を出さないことによってとうとう潰してしまいます。軍部大臣現役武官制が早くも利用されました。この「宇垣流産内閣」についてはまた別に。

その後成立した林銑十郎内閣は「食い逃げ解散」を行い、1937年6月4日に近衛文麿内閣が成立します。その内閣で、広田弘毅は2度目の外務大臣を務めます。

そしてそのわずか1ヶ月後、7月7日に盧溝橋事件が勃発します。
支那駐屯軍の第一連隊の中隊が北京郊外の盧溝橋で夜間演習を行っているとき、中国軍陣地から射撃音を聞きます。集合してみると、一兵士が行方不明となっていました。この兵士はほどなく帰隊したものの、連隊長の牟田口廉也は第三大隊に出動を命じ、日中両軍は戦闘に入ります。
それでも現地では、7月11日に停戦協定を成立させます。
しかし陸軍中央は、中国への出兵を進めようとします。外務省では、堀内次官、石射東亜局長、東郷欧亜局長らの意見を聞いて、陸軍の動員案に反対することを申し合わせて五相会議と閣議に臨みます。ここで杉山陸相が5個師団、さしあたり3個師団の動員を主張すると、広田外相や近衛首相はこれをあっけなく認めてしまうのです。
さらに7月17日の五相会議で、杉山陸相は中国に対する厳しい要求を掲げ、それが認められなければ中国を「膺懲」するという陸軍案を示します。この陸軍案に、広田も同意してしまうのです。そして7月20日の閣議では、内地3個師団の華北派兵を決します。
このときの広田外相の消極的な態度について、内務大臣や、近衛首相自身による「あきれた」という発言が残されています。
愛想を尽かした外務省の石射局長らは辞表を提出します。すると広田外相は「黙れ、閣議の事情も知らぬくせに余計なことをいうな!」と感情を露わにしました。

結局のところ内地3個師団が現実に派遣され、近衛内閣は戦費の支出についても承認します。7月28日に日本軍が中国大陸で攻撃を開始します。

その後、戦火は上海に飛び火し、支那事変は泥沼へと引きずり込まれます。
日本が上海を陥落し、さらに南京に迫ろうとする中、蒋介石政権と和平交渉を行う広田外相の和平条件はどんどん吊り上げられます。近衛首相も広田外相も、世論を気にした政治を行っており、世論がどんどん高揚している状況の中で自身の政策も硬化していくのです。もともと高揚する世論も、近衛内閣が焚きつけたものだったのですが。

日本軍に占領された南京では、いわゆる南京大虐殺事件が起こっています。南京総領事館からは外務省に詳細な報告が上がっていました。広田外相は石射欧亜局長を介して陸軍省軍務局に厳重注意を申し入れますが、現地軍はかえって怒るばかりです。さらに広田は杉山陸相に軍紀粛正を要望したものの、閣議には南京事件を提起しませんでした。
このときの広田外相の対応が、後の東京裁判で絞首刑判決を受ける大きな要因となりました。

1938年1月、大本営政府連絡会議では、日支交渉を打ち切るかどうかを議論します。このとき、陸軍の参謀次長は打ち切り慎重を唱えるのですが、杉山陸相に広田外相が同調し、外相自ら外交交渉打ち切りを主張するのです。そして16日、近衛内閣は「爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」とする近衛声明を発表してしまいます。
この声明の結果、支那事変の外交解決は遠のき、そののちの太平洋戦争へと突き進んでいくこととなります。


二度目の外相時代、広田弘毅は陸軍に対してなぜこれほどに弱気だったのでしょうか。
私は、二・二六事件の影を感じます。あの頃の政治家にとって、「陸軍に反対したら暗殺される」というのは現実の恐怖だったでしょう。政治の場で自分の信念を押し通そうとしたら、「明日殺されても本望である」という覚悟が必要だったはずです。木戸幸一も、「あれは恐怖だった」と語っていたように記憶します。
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