弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

なでしこ一次リーグ突破

2008-08-12 23:23:54 | サッカー
北京オリンピックが始まって、ライブでの観戦は殆どなかったのですが、本日の夜はライブを楽しみました。

まずは男子800m自由形リレー予選。日本チームは第1レース、すばらしい日本記録で4位に入ります。第2レースの結果次第で決勝に出られるかどうかきわどいところでしたが、解説者の声が上ずっていました。7位でファイナル出場、おめでとうございます。

続いてなでしこジャパンの一次リーグ最終試合です。
前半はハイライト、後半がライブ中継でした。
前半のハイライトで見る限り、日本は思い切り飛ばしています。前半は1-1で終わり、後半に日本の足が止まり、ノルウェーが本気を出したらひとたまりもないのではないか、と危惧しながらの後半開始です。
心配したとおり、ノルウェーは後半開始から怒濤の攻撃を仕掛けます。これは粉砕されるのか、と思いきや、何と後半開始早々に日本は立て続けに2得点するのですね。これにはびっくり仰天しました。
そして後半の経過とともに、足が止まったのはノルウェーの方でした。ぜんぜん動けません。日本は余裕のパス回しから、さらに2得点ですからね~。

本日は久方ぶりに「入ったー!!」の絶叫を上げることができました。それも5回も。

この勢いで、次の試合も思いっきり行ってください。
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米国陸軍飯柴大尉のその後

2008-08-10 20:14:57 | 歴史・社会
米国陸軍の飯柴智亮については、今年の2月7日に飯柴智亮「第82空挺師団の日本人少尉」という記事を書きました。
そして、7月24日、飯柴大尉が日本に軍用品を不正輸出したかどで訴追されていることを報告しました

その後の報道を見ると、違法行為としては、
①銃器の照準器など、輸出するには米政府の許可が必要なのに、許可を受けずに日本に輸出した。
②輸出に際し、輸出関係書類に「銃器部品」と記載しなかった。
という2点であるようです。

不正輸出したのは歴戦の勇士「飯柴大尉」
 軍用品を米国から日本に不正に輸出したとして訴追された日本出身の米陸軍将校、飯柴智亮大尉(34)が28日、シアトル連邦地裁で開かれた審理で不正の事実を認めた。飯柴大尉は司法取引に同意、11月7日に量刑が言い渡される。
 フォートルイス陸軍基地(ワシントン州)の情報部門に所属していた飯柴大尉は2006年から今年2月にかけ、別の人物と共謀。イリノイ州の企業から購入した銃器に付ける照準器60個などを、米政府の許可なしに日本に輸出したとして今月、訴追された。
 検察側は輸出先について「複数の個人や仕事の相手」としている。
 検察側によると、飯柴大尉は輸出関係書類に虚偽の内容を記載していた。最高で禁固5年と罰金25万ドルなどが科される可能性があるが、「米国の安全保障を脅かす意図はなかった」との認識で検察、弁護側が合意、双方は保護観察3年が妥当としている。
 飯柴大尉は渡米後に米国籍を取得。1999年に陸軍に入隊し、アフガニスタンでタリバン掃討作戦に参加した経験を基にした著書や、兵器の解説書を出版している。訴追を受け情報部門から外された。 (共同)
[ 2008年07月29日 11:32 ]

飯柴大尉はなんでこんなことをしてしまったのか。本人は、輸出に許可が必要だと知らなかったといっています。私も、もし知っていたら、自分の軍歴を台無しにするようなこんな計画に加担しなかったと推測します。

全文掲載:飯柴大尉の声明文というのを見つけました。
それによると、照準器を購入して日本に送ってほしいと依頼した人間は、日本の陸上自衛隊の自衛官だというのです。それも、個人的に買いたいといったのではなく、特殊作戦群からの要望、即ち「自衛隊が使う」として話がありました。

飯柴大尉は快く了解し、輸出に許可が必要とは知らず、町で照準器を購入して日本に発送しました。依頼した自衛官は、許可が必要だとあとから知らせてきたそうです。

飯柴大尉が起訴される前後、防衛省・陸上自衛隊幕僚監部(通称:陸幕)より飯柴氏に連絡があり『今回の件に陸上自衛隊が関わっているという事実は 伏せて欲しい』との要請があったとのことです。

自衛隊が任務で使う備品を、飯柴氏個人に購入依頼するという点はまったく解せません。また、飯柴氏に口止めを要求するなど以ての外です。

この件に関し、上の声明文全文掲載と同じサイトに、小銃部品不正輸出事件の問題点小銃部品不正輸出事件:防衛大臣が報道を否定?という2つの記事が掲載されています。

日本の防衛省は、「今回の事件で自衛隊は関係していない」という見解のようです。早く真実を明らかにして欲しいものです。
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もんじゃ焼きの作り方

2008-08-07 22:07:27 | Weblog
私は、弁理士仲間で月に1回程度開かれる判例研究会に参加しています。
研究会の会場は、東京中央区の佃区民館と決まっています。実は幹事が部屋の予約をするのが結構大変ではあるのですが。

佃区民館の最寄り駅は地下鉄有楽町線の月島です。佃区民館から歩いてすぐのところに、月島のもんじゃ焼き商店街があります。もんじゃ焼きの店が建ち並ぶことで有名な通りです。
我々の研究会も、年に2回、研究会の後にもんじゃ焼き屋で懇親することとしています。商店街にたくさんのもんじゃ焼き屋が建ちならぶ中で、どういうわけか利用するのは「さかもと」という1軒だけです。

「もんじゃ焼きの正しい作り方」というのが存在するのかどうかわかりませんが、われわれはその「さかもと」で店主の親父さんから教わった作り方を習得し、いつもそれでいっています。
今回は、もんじゃ焼きの作り方を紹介します。

まずは、判例研究会の方から。
佃区民館の入り口です。

入り口を入ると、本日の部屋の予約が看板に書かれています(左下写真)。「判例研究会」というのがわれわれの会場です。研究会の様子を1枚だけ挙げておきます(右下写真)。
 

研究会が終了して、会場をもんじゃ焼き屋に移します。
夜のもんじゃ焼き通りです(①)。「さかもと」に到着します(②)。
 
   ①                        ②
もんじゃ焼きを注文すると、どんぶりの中に山盛りの具が入って渡されます。てっぺんに肉が載せられ、どんぶりの底の方に汁が入っています。
まずは肉だけを鉄板の上に置き、焼きます(③)。その間に、どんぶりの中で具(野菜類)と汁を混ぜます。混ぜても、大部分の汁はどんぶりの底に溜まったままです。
次いで、汁をどんぶりの底に残したまま、具だけを鉄板の上に載せ、先ほどの肉と一緒に焼きます(④)。
 
   ③                        ④
頃合いを見計らって、焼いた具をドーナツ状に積み上げ、堰を作ります(⑤)。そしてこのドーナツの真ん中に、どんぶりに残った汁を注ぐのです(⑥)。
 
   ⑤                        ⑥
堰がうまく作れていないと、決壊して汁が流出してしまいます。ちょっとぐらいの流出であれば、修復は可能です。
このままでしばらくすると、堰の中の汁がとろみを増してきます。その段階で全体を混ぜます(⑦)。これでもんじゃ焼きが完成します。お好み焼きのように固まらず、とろとろした状態で食べるのです。一人一人に金属製のへらが渡されているので、それを用いてもんじゃ焼きをすくい取り(⑧)、そのまま口に運んで食べる、という段取りです。
 
   ⑦                        ⑧

実のところ、私はこの店でしかもんじゃ焼きを食べたことがないので、この作り方が一般的なのかどうか、知りません。地域毎に、あるいは店毎に、作り方が違う可能性はあります。
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井上真琴「図書館に訊け!」

2008-08-05 22:02:16 | 知的財産権
最近は、インターネットで検索すれば大抵のことは何らかの情報が得られます。インターネットは玉石混淆ということで、ちょっとはましな情報に厳選しようとするときは、Wikipediaがあります。しかし、Wikipediaも不特定人が編集しているということで、本当に確かな情報を入手しようとしたときは、百科事典を参照すべきである、とよく言われます。
私もそのとおりだと思い、百科事典にアクセスできる環境を整えています。具体的には、ジャパンナレッジに加入し、月会費を払うことによって日本大百科全書にいつでもアクセスできる状態にあります。

先日、このジャパンナレッジ経由で、千代田図書館ビジネスセミナー「仕事時間を短縮!信頼できる情報をすばやく集める方法教えます。」という記事を読みました。
やはり百科事典の活用を薦めています。また、「通常のインターネット検索では、『深層Web』を使いこなすことができない。どうしたら使いこなせるか」ということで、種々の統計資料にアクセスする手法が解説されています。

さらに、参考になる図書として以下の本が紹介されていました。
図書館に訊け! (ちくま新書)
井上 真琴
筑摩書房

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図書館ですか。
最近はインターネットの「居ながらにして、欲しいときにすぐに」データを入手できる便利さに慣れてしまい、わざわざ図書館に出かけることが皆無です。特許庁の資料館でさえ、おっくうで出かけません。
しかしこの本によると、図書館というのは奥が深いし、本当に創造的で知的な新しい仕事を成し遂げようとしたら、図書館の利用なしにはあり得ない、ということになりそうです。

まず、「自分が本当に必要とする情報はどの本・論文に掲載されているのか」を検索することから始まります。この検索手段として、OPAC(Online Public Access Catalog)という書誌の目録情報などが紹介された後、「レファランスブック」という紙媒体の使い方が紹介されます。百科事典もレファランスブックの一つに入っています。文献を調べるためのレファランスブックとして、目録・書誌・雑誌記事索引という強力なツールがあるとのことです。
図書館が持っている種々の「レファランスブック」を上手に活用することが、必要な情報に到達する近道であるが、日本の学者はレファランスブックの利用が下手だ、ということのようです。

そして図書館の「レファランスサービス」です。図書館員(レファランス・ライブラリアン)は、種々のレファランスブックをはじめとする検索ツールの利用に習熟しているので、自分で検索するのみならず、図書館員に相談してみることだ、という薦めです。
学生たちから寄せられたいくつかの相談事を事例として、レファランス・ライブラリアンを利用することがいかに有効であるかが説明されます。


この本を読むことで、図書館が有効なツールであるらしいことは理解しました。まだ、実際に腰を上げて図書館を訪問するには至っていませんが、必要が生じたときは利用することにしましょう。


ところで百科事典ですが、確かにWikipediaが抱える問題は理解しつつ、便利に使えるのは日本大百科全書よりもWikipediaですね。日本大百科全書は、今日的な話題になるとどうしても弱いです。
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日中戦争拡大と米内光政

2008-08-03 18:39:48 | 歴史・社会
8月1日の日経新聞の広告に、是本信義著「誰も言わなかった海軍の失敗」(光人社刊)が見られました。その広告文章には、
日中戦争の和平を壊したのは米内光政。陸軍をだまして、太平洋戦線へ引きずり込み、多大な犠牲を強いたのは海軍! 海軍善玉論の裏側に秘められた数々の誤謬と錯誤を直視して、歴史の定説に挑んだ異色作。」
とあります。
米内光政の名前を見て、「おや」と目を留めました。

実は現在、「広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書 1951)」を読んでいるところです。ちょうど盧溝橋事件から日中戦争が拡大していく時期の部分を読んでいます。

1937年6月4日、近衛内閣が成立します。
首相:近衛文麿、外相:広田弘毅、陸相:杉山元、海相:米内光政・・・
そしてそのわずか1ヶ月後、7月7日に盧溝橋事件が勃発します。
支那駐屯軍の第一連隊の中隊が北京郊外の盧溝橋で夜間演習を行っているとき、中国軍陣地から射撃音を聞きます。集合してみると、一兵士が行方不明となっていました。この兵士はほどなく帰隊したものの、連隊長の牟田口廉也は第三大隊に出動を命じ、日中両軍は戦闘に入ります。
それでも現地では、7月11日に停戦協定を成立させます。
ところが近衛内閣は、同日に5個師団の動員を決定するのです。
その後、まず3個師団が現地に派遣され、7月28日に日本軍が攻撃を開始し、支那事変が拡大の一途をたどることになります。
現地では停戦していたのに、支那事変拡大の責任は内閣にあったのです。書籍「広田弘毅」は、このときの外相としての広田弘毅にスポットを当てて話が進みます。

ところで今の注目点は、広田外相ではなく、米内海相です。

8月9日、上海海軍特別陸戦隊の大山中尉ら2名が中国保安隊によって射殺され、この事件をきっかけに戦線は華北から上海へと拡大することになりました。近衛内閣は8月13日に内地2個師団の上海派兵を決定し、それまでの北支事変が支那事変へと変貌します。
この上海派兵は、すぐ後の南京大虐殺につながる重大な政策決定でした。その点は、このブログでも去年の8月に上海での第百一師団として取り上げました。

日中両軍の全面衝突が避けられなくなると、近衛内閣は8月15日に声明を発表します。日本は「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとるの已むなきに至れり」
「この『膺懲』声明は、杉山陸相が前日の閣議で提案したものであった。その閣議で広田は杉山案に否定的だったが、いまや米内海相が南京占領を提起するまでになっていた。このため広田は、杉山案の『共産主義勢力』を『赤化勢力』に直すのが精いっぱいであった。」

そう、ここに米内海相が、支那事変を拡大する急先鋒に変貌したことが書かれているのですね。

米内光政といえば、この後の1939年の平沼内閣時代に海軍大臣として、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長とともに、日独伊三国軍事同盟に徹底反対したことで有名です。また、終戦時の海相として終戦を導きます。まさか支那事変拡大の急先鋒になっていたとは・・・。
最初に挙げた「誰も言わなかった海軍の失敗」で「日中戦争の和平を壊したのは米内光政」と書かれているのはこのことでしょうか。

ところで米内光政といえば、阿川弘之著「米内光政 (新潮文庫)」を思い出します。
そこでこの本を紐解いてみました。日華事変勃発当時の部分です。しかしこの本では、上海派兵前後の米内海相の発言については一切触れられていません。一体著者の阿川氏は、当時の米内海相の行動について知らなかったのか、知っていて書かなかったのか、非常に気になるところです。

もう一点、盧溝橋事件当時の第一連隊長の牟田口廉也、例のインパール作戦を主導した人物です。日華事変勃発の口火を切ってしまったことは反省していたらしく、その反省から、インパール作戦でお役に立ちたいと考えたようです。同じ反省するのならおとなしくしていて欲しかったです。
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北九州空港

2008-08-01 22:38:51 | 歴史・社会
7月末に北九州への出張があり、往復に羽田-北九州空港間の飛行機を使いました。

北九州空港・・・懐かしいです。今から35年近く前、北九州空港からYS11に乗った経験があるのです。
その後、そのような空路はなくなり、北九州に出張するに際しても、新幹線で小倉まで行って在来線に乗り換えるか、飛行機であれば福岡空港に飛び、博多経由で北九州へ行っていました。

今回の出張で、「北九州空港利用が便利です」と教えていただき、「あの昔の北九州空港だろうか」とまず思い浮かびました。
調べてみると、私が知っていた北九州空港は現在では「旧北九州空港」であって、2006年3月に閉鎖されたようです。そしてそれに代わって同じ2006年3月に登場した「新北九州空港」が、2007年9月に「北九州空港」に改名して現在に至っています。私のようなロートルには区別がつかないわけです。

旧北九州空港も、新北九州空港も、小倉から東南東の方角に向かった海岸沿いです。旧北九州空港はまさに海岸に立地していたのに対し、新北九州空港は海岸近くの海を埋め立て、そこに新しく建設したようです。

旧北九州空港、YS11が飛ばなくなったのはもう30年前後も前のことのようです。それ以降ジェット機は飛んでいたのですが、タクシーの運転手さんの話によると、レーダーを設置することができず、結果として有視界飛行のみ可能で計器飛行ができず、天気が悪いと欠航になっていたようです。

さて、[新]北九州空港です。
スターフライヤーという航空会社のジェット機が、羽田との間で1日11往復も就航しています。これは便利に使えますね。私が乗った便は、往復ともほぼ満席状態でした。これなら収益も良好でしょう。
小倉バスセンターと北九州空港の間にバスが運行しており、所要時間は40分弱というところです。

ターミナルビルは、入り口部分が総ガラス張りの立派な建物です。その横にちょっと離れて、管制塔ビルが見えます。
  
   ターミナルビル正面          管制塔ビル
正面の入り口を入って、出発便はすぐに2階に上がります。2階は天井の高い広いホールになっています。正面中央付近はJALのカウンターが広くスペースを取り、スターフライヤーは一番奥まったところにカウンターを構えています。逆にすべきですね。右下の写真は、カウンターがある側とは反対側の奥を写したものです。
  
   2階正面               2階奥

2階からターミナルビル入り口を望む
  
 待機するスカイフライヤー機     地上スタッフさんたち
保安検査場を通過すると、搭乗口は1~4の4箇所だったようです。
黒い機体のスカイフライヤー機が駐機しています。地上スタッフさんたちも元気ににこやかに対応していました。


[新]北九州空港の由来について、こちらに記事があります。
昭和56年から計画し、平成18年にやっと完成した空港のようです。
「関門航路は潮流が早く、土砂がたまりやすいため、安全に船舶が航行するために常に浚渫をしています。」
この浚渫した土砂を空港予定地の海域埋め立てに用い、長い年月をかけて空港のための人工島を完成したようです。

ところで、30数年前に乗ったYS11ですが。
私は北九州から羽田まで乗ったように記憶しているのですが、タクシーの運転手さんらの話では大阪までしか運行していなかったようです。
とにかく、飛行所要時間がジェット機の倍で、プロペラ機であるために機内の騒音が激しく、決して乗り心地のいい乗り物ではありませんでした。
しかし、戦後国産唯一の旅客機に乗った経験というのは貴重でしょうね。
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