弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

「日本外交の過誤」に関連する諸先輩の談話

2008-08-24 12:53:21 | 歴史・社会
先日吉田茂の自問―敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」を紹介しました。1951年、吉田総理の指示により、外務省の職員がまとめた書類が「日本外交の過誤」です。そしてその書類には、「諸先輩の談話」という書類が附属しています。その当時に話を聞くことのできた、日本外務省出身の諸先輩に話を聞き、まとめたものです。
堀田正昭、有田八郎、重光葵、佐藤尚武、林久治郎、芳沢謙吉の諸氏です。私が知っている人は一人しかいませんでした。しかし読んでみると、満州事変から第二次大戦までの日本外交に携わった人たちであり、その談話の中身には興味ある発言が多く見られました。そこで、ここに興味を引いた発言を抄録しておこうと思います。なお、氏名の後の略歴については、日本人名大辞典から引用しました。

堀田正昭 1883‐1960
昭和9年国際会議帝国事務局長兼スイス公使となり,ジュネーブ一般軍縮会議に随員として列席。12年イタリア大使。
「国際連盟を脱退した理由は、結局判らない。」「斉藤首相も脱退の腹はなかったはずだ。どこから脱退論が頭をもたげてきたか判らないが、一体に極端論というものは、バカにして油断しているといつのまにか勢いを得るもので、こわい。」
○日独伊三国条約締結
「一体に、大島や白鳥は、政府のいうことを聞かないことが度々あった。そこで総理から、今度出先がいうことを聞かなかったら免職しますということを陛下に申し上げた。陛下は、内閣が代わるたびにグラグラしたからであろうが、書いたものにしてよこせといわれ、そういう一札が出ている。」「しかし、大島や白鳥はやめさせられなかった。」


有田八郎 1884‐1965
昭和11年広田内閣の外相となり,日独防共協定を締結した。のち第1次近衛・平沼・米内(よない)各内閣の外相。
「マッカーサー元帥が、その証言の中で、日本国民には勝者にこびへつらう性癖があるといったそうだが、どうにも癪にさわるけれどもそういわれても仕方がないかも知れない。」

重光葵 1887‐1957
中国公使時代の昭和7年上海爆弾事件で右脚をうしなう。駐英大使などをへて,東条・小磯・東久邇(ひがしくに)内閣の外相。20年首席全権としてミズーリ号上で降伏文書に調印。

佐藤尚武 1882‐1971
1937年林銑十郎内閣外相となり、従来の「広田三原則」にかわる新しい対中国政策を提起した。昭和17年ソ連大使。
「(外務大臣就任)当時は満州事変が起きてから6年経っており、支那との関係は相変わらずごたごたしていた。このままうっちゃっておくと国民政府は馬鹿にならぬ。これと戦っておると飛んでもないことになるというような気がしてならなかった。」「そこで大臣に就任すると直ぐ南京政府との交渉の下準備にかかった。」「(外務省、陸軍、海軍の担当者が相談し、関東軍の参謀とやり合っているうちに)6月3日林内閣が総辞職して自分も退いてしまった。その後をついだ第一次近衛内閣の外務大臣は広田であったが、広田に対しては2時間もかかって事務引継をした。ところが、その後の30日くらいというものは、自分の向かっていた方向に何もしていない。そのうち7月7日の盧溝橋事件が起こった。」
(駐ソ大使時代3年目)「軍部は、ソ連の嫌がるようなことをさんざんにやって来たくせに、何故かソ連に対して甘い考えを持っていた。」「アメリカの意向を気遣わねばならないソ連が日本の申出を断るのは始めから判りきったことであった。」
「広田マリク会談なるものが行われた。」「あの際、貴重な一ヶ月を空費したことは、承伏できない。」
(終戦後、陛下から)「『広田マリク会談で一ヶ月を空費したことについては、お前のいう通りだ。しかし、あの時代には、どうしてもそれを経なければ次の手がとれなかったのだ』という趣旨のお話しがあった。」

林久治郎 1882‐1964
昭和3年奉天総領事。6年柳条湖事件がおこると,軍部の行き過ぎを批判して平和的解決につとめたが,7年ブラジル大使に転出した。
「軍の堕落は、昭和の初め頃、その勢威が地に堕ちて、何とかばん回しなければならないとして焦ったことから来ている。内部では下克上の風がおこり、外には、トラブル・メイカーになった。軍紀の弛緩はひどいものだった。団匪事件の際の日本兵というものは、諸外国人を賛嘆させたものだったが、その時分のことを知っている外国人は、済南出兵の際の日本兵を見て、その変わり様に驚いていた。」
「満州事変の勃発する直前に自分は日本に帰って来て満州の事態がただならぬことを説いて廻ったが、どうも皆ピンと来ない様子だった。」「政府が予算を通しさえしなければ、軍事行動はできなくなる。」「満州事変を止めたかったら、なぜ金を出すことを拒まなかったか。」

芳沢謙吉 1874‐1965
大正12年中国公使となり,ソ連のカラハン大使との間で14年日ソ基本条約を締結。昭和5年駐仏大使,国際連盟日本代表を兼務。7年犬養内閣外相。
「昭和7年の初め頃、犬養首相が自分に『陸軍の統制が乱れている。30人ばかりの青年将校が団結して軍を牛耳っている。このままにしておいたらどういうことになるわからぬ。閑院参謀総長宮殿下のご同意を得て陛下に直訴し、彼等をクビにしようと思う』といった。」
「ところで五・一五事件の翌朝、森内閣書記官長が『総理はいけないよ、こんな事を考えていた』といって、総理が自分に言った右のことを話した。森に話せば小磯などに話すことは判り切ったことだった。何でも森から軍に筒抜けになっていたわけだから、春秋の筆法をもってすれば森が犬養を殺したのだともいえよう。」
「デニソン氏が『日本人はミリタリーの勇気があるが、シヴィルの勇気に乏しい』といったことがあるが全くその通りである。」
コメント
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