弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

2007年頃のイラク国内の実態

2021-09-11 13:25:54 | 歴史・社会
(9・11から20年)ウソの密告、米軍に殺された家族 「協力者」頼みの反米武装勢力掃討 2021年9月7日  朝日新聞
『甲高い犬の鳴き声、そして、兄弟の断末魔が耳にこびりついている。
2007年9月24日未明、バグダッド北部の農業地帯。サミア・ハリルさん(49)はヘリの騒音で目覚めた。通りを挟んで数十メートル離れた実家の上空に、ヘリが旋回していた。実家は兄弟9人がそれぞれの妻子らとともに暮らしていた。米兵がヘリから降り立ち、実家に一斉に突入した。』
15~30歳の兄弟5人、そして、親類一人が殺害されました。
なぜ米軍は兄弟らを狙ったのか。米軍が突入する数カ月前、同じ地区の人から米軍を支援する民兵団に入隊しないかと誘われましたがそれを断りました。
「だから、誰かが『やつらは反米武装勢力だ』と米軍に密告したんだと思う」、とサミアさんはいいます。兄弟は誰一人として反米闘争に関与していなかったといいます。

『バグダッドの大学生、サアダラ・イブラヒムさん(23)は、米軍に姉らを殺害されたという。
サアダラさんはサミアさんと同じ地区の出身。・・・
07年8月初旬のある日、午前3時ごろだった。
ヘリの轟音に飛び起きたサアダラさんは当時9歳。数百メートル先に、旋回する2機の大形輸送用ヘリを見つけた。ロープをつたい、次々に兵士たちが降下していく。
米軍の急襲だった。突入先は姉アズハールさん(当時24)とその夫アマフドさん(当時29)らが暮らす家だ。』
姉、アマフドさん、同居していたいとこが死んでいました。
『事件後、両親から聞かされたのも、アマフドさんらが「反米武装組織の一員だった」という密告が米軍にもたらされていたらしい、ということだ。』
『サミアさんやサアダラさんが住んでいた地区はイスラム教スンニ派が多数を占める。』
--新聞記事以上-----------------
バグダッド北部で、イスラム教スンニ派が多数を占める地区というと、スンニー派トライアングルが思い出されます。ウィキによると、バグダッドを南東頂、ティクリートを北頂とする、一辺が200キロ程度の三角形地帯です。底辺(南辺)の中心付近にファルージャがあります。

イラク戦争は、米軍主体の軍隊が攻め込んだのが2003年3月、5月にはブッシュ大統領が「大規模戦闘終結宣言」を出しました。フセイン大統領が拘束されたのはその年の12月です。
米軍がファルージャに攻め込んで多数の民間人死傷者を出したのが2004年4月、同年の11月には同じファルージャの市街包囲掃討作戦があり、ファルージャは徹底的に破壊されました。

今回記事の悲劇があった2007年は、イラク戦争の一応の停戦から4年、ファルージャの激戦からも3年が経過しています。2007年に、イラクではどのような状況だったのでしょうか。

2007年頃、イラクはますます危険な国に変貌し、私が頼りにしていた酒井啓子先生の著作続報は出ないし、日本のジャーナリストも現地に入れず、情報が途絶えていました。唯一、バグダッドに住むハンドル名リバーベンドという女性のブログ記事が頼りであり、それを本にした「いま、イラクを生きる―バグダッド・バーニング〈2〉」で情報を入手していました。また、その頃出版されたパトリック・コバーン著「イラク占領―戦争と抵抗」(緑風出版)も読みました。

以下、私のブログ記事「リバーベンドが語るイラクの現状 2007-02-15」より
リバーベンドとは、バグダッドに在住し、当時20代後半の女性で、イラクの現状をブログで発信し続けている人物でした。ただしその本人が誰であるかは不明で、実は全くの他人がなりすましている可能性も否定できません。
しかし彼女の文章を読む限り、イラクの現状について真実を語っているように思われました。

私は、この頃になって彼女のブログ記事を日本語に訳した著書(バグダッド・バーニング2)をはじめて読み、07年2月4日2月11日に記事にしました。

リバーベンドのブログから、2006年から7年にかけて、イラクがどんどん悪い方向に転がり落ちている状況を見て取ることができます。

彼女の2006年12月29日のブログ記事から
「平均的イラク人の1日の生活は、遺体の身元確認や、自動車爆弾を避けることや、監禁されたり、追放されたり、誘拐されたりしている彼らの家族たちを探すことだけに明け暮れている。
2006年は、はっきり言ってこれまでで最悪の年だった。間違いないわ。」
「この年は特に転換点だった。ほとんどのイラク人が多くのものを失った。本当に多くのものを。この戦争と占領によって私達が喪失したものを言い表すことなんて不可能だわ。毎日40体ほどの、切断され腐敗した様々な状態の遺体が見つかっていると知っていることから湧き上がってくる気持ちを言い表せる言葉なんてありはしない。イラク人ひとりひとりに覆いかぶさっている恐怖の黒く厚い雲を埋め合わせてくれるものなんてありはしない。手に負えなく怖しいものは、名前が「スンニ的」か「シーア的」かなんて馬鹿げたことで区別されること。もっと恐ろしいもの-戦車に乗ったアメリカ兵、地域をパトロールする黒いバンダナに緑の旗を持った警察、検問の黒い覆面をしたイラク軍兵士。
バグダードはシーアが立ち去ったスンニ地域と、スンニが立ち去ったシーア地域とに引き裂かれていっている-ある地域は脅迫のもとで、またある地域は襲撃の恐怖のうちに。人々は検問で大っぴらに銃撃されたり、ゆきずりの車から撃たれて殺されていっている...多くの大学では授業を中止した。何千人ものイラク人たちはもはや子供たちを学校にやってはいない-安全ではないからだ。」

リバーベンドがイラクを脱出した 2007-09-19
4月26日以降、リバーベンドのブログはずっと新しい記事がアップされていなかったのですが、9月6日の記事がアップされていました。
リバーベンドとその家族はとうとうイラクを脱出しました。
自動車に乗ってシリアとの国境を越え、シリアに脱出したようです。なぜシリアかというと、ビザ無しに入国できる国がシリアとヨルダンだけだからです。ヨルダン人は避難民に対して酷くあたるようになっているので、シリアを選びました。
リバーベンドが脱出先に選んだイラクは、その後、内乱の地獄となってしまいました。リバーベンドはその後、どのように暮らしているのでしょうか。ウィキによると、「そのシリアでも紛争が始まり、第三国への移住を考えていると投稿した2013年を最後にブログの更新は止まり、現在の消息は不明である。」ということです。

イラク戦争が始まる前、リバーベンドはバグダッドに住みコンピュータ技術者として生活していた20代後半の女性でした。われわれは「フセインの恐怖政治」が行われていると理解していましたが、バグダッドの一般市民は平穏な生活を営んでいたことになります。イラク戦争が始まり、そして主要な戦闘が終了しましたが、2007年、そのイラクから逃げ出さなければならないほど、バグダッドは人が住む町ではなくなっていたということです。
冒頭の新聞記事に描かれていた悲劇は、まさに同じ頃にバグダッドの北部農村地帯で実際に起こった悲劇でした。

アメリカと賛同国が始めたイラク戦争の結果として、フセイン政権が崩壊したのみならず、イラクという国そのものが破綻国家となってしまいました。イラク戦争前はバグダッドに平穏に暮らしていたリバーベンドとその家族も、身の危険からシリアに脱出せざるを得ないことになったのです。
一時期のIS(イスラム国)も、イラク北部のスンニー派地帯の混乱が原因で拡大したものです。

9・11で逆上したアメリカとアメリカ人は、アフガニスタンとイラクに攻め入り、その両国を平和にするどころか、両国を破壊して両国人に塗炭の苦しみを被らせることになってしまいました。それが現在に続いているということです。
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