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弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

中村哲著「天、共に在り」

2021-09-18 18:59:45 | 歴史・社会
2001年にアメリカが主導して始めたアフガン戦争は、当初はあっという間に当時のタリバン政権を打倒して民主政権(実はアメリカ傀儡政権)を樹立したものの、20年後の今年にタリバンに軍事力によって政権を奪還され、アメリカの敗戦で終わりました。
この20年間、実はアフガニスタンではどのような状況であったのか、私はこのブログを読み返し、以下の3つの記事を掲載しました。
タリバーンがアフガンを制圧 2021-08-16
タリバーンがアフガンを制圧(2) 2021-08-17
駐留20年の教訓 2021-08-21

最初の2記事は、主にアフガニスタンで活動されていた故・中村哲さんの発言と、同じくアフガニスタンで武装解除で活動した伊勢崎賢治さんの発言をもとにしたものですが、いずれも2008年から2009年にかけてのアフガニスタンでの実情であって、今から13年も前のことです。
そこで、それよりも以降におけるアフガニスタンでの実情を知るべく、探した結果として、中村哲さんの以下の書籍(2013年発行)を読むこととしました。
天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い

1973年 九州大学医学部卒業
1984~90年 パキスタンのペシャワール・ミッション病院で勤務。赴任をきっかけにペシャワール会が発足
1991年~ アフガニスタンにダラエヌール診療所はじめ、3診療所を開設
2000年~ アフガニスタンが大干魃に襲われ、井戸掘り事業を始める
2003年 用水路建設を開始(マルワリード用水路)
2005年 2診療所撤退
2007年 用水路第1期工事13kmが開通、さらにガンベリ砂漠を目指すことに
2008年3月 治安の悪化を肌で感じ、日本人ワーカー全員の帰国を決定
     8月 伊藤和也氏が誘拐・殺害され、日本人全員が帰国
2010年 モスクとマラドサを建設
      ガンベリ砂漠まで用水路が開通
      豪雨による大洪水
      JICAとの共同事業となる
2013年 カシコート=マルワリード連続堰が大方の基礎を終えた
書籍の記述はここまでです。2019年、中村さんは武装勢力に銃撃され死去されました。

まずは、この書籍から読み取ることのできる、2013年に至るまでのアフガニスタン東部山岳地帯での治安状況についてピックアップします。

『アフガニスタン復興は、今も茨の道である。この国を根底から打ちのめしたのは、内戦や外国の干渉ばかりではない。最大の元凶は、2000年夏以来顕在化した大干魃である。この農業国は、往時は完全な食糧自給を果たし、豊かな農産物を輸出して富を得ていた。それが、急速に進行する農地の砂漠化で廃村が広がり、流民が急増、食糧自給率はわすが5年で半減した。干魃はなおも進行中である。しかし、派手な戦争報告を他所に、このことはほとんど伝えられていない。』(12ページ)

国というと、中央集権の法治国家をイメージしますが、アフガニスタンは違います。一方、地域の自治性がいかに強くても、部族、民族が入り乱れて争っていても、共通した不文律が「アフガニスタンという天下」にまとまりを与えています。
不文律で代表的なものが「客人接待」と「復讐法」です。
アメリカが対タリバン・アフガニスタン戦争を開始したのは、「タリバンがアルカイダと提携し、頭目のビンラーディンと同盟している」ことによりますが、ビンラーディンはタリバンにとって客人であり、「客人を理由なく売り渡さない」は不文律に従ったものでした。

1978年、左翼青年将校のクーデターで急進的な共産政権が誕生しました。反政府的なイスラム主義者の激しい弾圧が行われ、反乱が全国に拡大しました。政権が危機的とみたソ連は、1979年に大部隊を侵攻させました。ソ連=共産政府は、村落ぐるみの徹底的な破壊を行いました。ソ連軍が撤退する1989年まで、200万人が死亡したと見積もられ、国外に避難する大量難民が生まれました。パキスタンに270万、イランに150万以上が難民化しました。
ソ連軍撤退後も内戦はますます混迷を極めました。
1991年に共産政権が倒れると、地方に割拠していた各政治勢力がカブールに集中、戦場が農村から都市に移ると、難民はただちに爆発的な帰郷を開始しました。パキスタンから200万人が帰還しました。
2000年、中央アジア全体が未曾有の干魃にさらされました。アフガニスタンの被害が最も激烈で、400万人が飢餓線上、100万人が餓死線上にあるとされました。
『この状態の中で、死にかけた幼児を抱いた母親が診療時ににくる姿が目立って増えた。・・・生きてたどり着いても、外来で列をなして待つ間にわが子が胸の中で死亡、途方に暮れる母親の姿は珍しくなかった。』(84ページ)
こうして2000年7月、「もう病気治療どころではない」と、診療所自ら率先して清潔な飲料水の確保に乗り出しました。

2001年 9・11が勃発します。アメリカによる報復戦争が始まり、10月7日にはジャララバードが空襲されました。
『日本でまとこしやかに報道された「ピンポイント攻撃(テロリストの場所だけを攻撃して市民に被害を与えない)」の実態は、無差別爆撃であった。』(88ページ)
『いかに粉飾しようと、この戦争のツケは、暴力的報復として、やがて現れるだろう。爆風で散乱した肉親の死体を拾い集め、両親の屍に取りすがって泣いていた子供たちの姿がこころに焼き付いて離れない。彼らが長じたとき・・・、不憫な思いと共に、うそ寒いものを感じざるを得なかった。』(101ページ)

『多くの救援団体は首都カブールだけに集中し、学校教育の在り方、男女平等の徹底などを論じる傍らで、多くの人々がその日の糧にも喘いでいることを知っているとは思えなかった。
教育や男女平等が無用と言うのではない。死にかけたわが子を抱きしめて診療所に急ぐ母親、一家の働き手を空爆で失って途方に暮れる主婦、延々数キロの道のりを水くみで往復する農村の女性たち、彼女らの声が反映されているとは言えなかった。』(103ページ)

2002年、アフガニスタンでは復興支援ラッシュの結果、大インフレとなりました。さらに、医師らは、カブールに行けば5~10倍の給与を保障されることから、中村さんらが開設する診療所から去って行きました。アフガニスタン奥地に開設する3診療所のうち、2つを閉鎖せざるを得ませんでした。

2002年、治安は悪化の一途をたどり、米軍の「アルカイダ掃討作戦」はいたずらに反米感情を煽るばかりで実が上がりませんでした。外国軍の「掃討作戦」は粗雑なもので、モスクや学校の誤爆が後を絶たず、反感と復讐心を人々の間に増幅させました。
『ISAF(国際治安支援部隊)が「地方展開」を始めてから、治安は坂を転げ落ちるように悪化の一途をたどった。彼らが進駐するところ、ただちに戦火が広がった。』(160ページ)

『2009年3月、用水路の沈砂池に「養魚池」を作る計画が、PRT(米軍・地方復興チーム)から農業省を通して伝えられた。そんなものができれば、水量調節ができなくて用水路が台無しになり、流域農民が迷惑する。だが通告が高圧的で、有無を言わせぬ態度だった。』(184ページ)
PRTというと、ゴール県のチャグチャランで日本人文民4人が従事した活動を思い出します。4人のうち2人は女性(今井千尋さんと石崎妃早子さん)でした。
アフガニスタン奮闘記 2011-12-10
アフガニスタン奮闘記(2) 2011-12-12

以上のように眺めてみると、2001年に米国が開始した20年間にわたるアフガン戦争で、アフガニスタンの人々がアメリカに対して復讐心を募らせていった実態がよくわかります。「アメリカ傀儡の現政権か、タリバン政権か」と迫られたとき、タリバンを選んだとしても全然不思議ではありません。

また、今回のタリバンによるアフガニスタン制圧で、女性の権利が失われていることが世界的に非難されています。それはその通りなのですが、カブールを一歩離れて地方の農村地帯に行けば、アフガニスタンの女性たちがこの20年間戦乱でどれだけつらい思いをしたか、そして現在も続く大干魃でどれだけひどい目に遭っているか、そこにもきちんと目を向ける必要があります。
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