弁理士の日々

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田中滋著「常勝ファミリー・鹿島の流儀」(2)

2010-01-19 20:16:37 | サッカー
第1回に続き、田中滋著「常勝ファミリー・鹿島の流儀」です。

96年、鈴木満氏はフロントに入る辞令を受け、ヘッドコーチから強化部長に変わります。
「クラブとしては“事業”と“運営”と“強化”。その3本がちゃんとしてたらなんとかなる」
強化部長の鈴木満氏を始めとして、事業部は鈴木秀樹氏、運営部は高島雄大氏。いずれもこの道のスペシャリストとして、Jリーグの中でも評価が高いそうです。

鈴木強化部長は、監督ジョアン・カルロスとの信頼関係を築くため、監督から相談を持ちかけられたときは「社長と相談する」と持ち帰らず、独自で判断する体制を構築しました。
また、それまで強化担当の仕事は主にスカウト業務が中心でしたが、鹿島ではスカウト部門を分離しました。強化部長が常に現場に密着し、選手や監督、コーチの間で問題が起きたときにすぐに対応するためです。
鹿島のスカウトは椎本邦一と熊谷浩二が務めています。

Jリーグバブルがはじける中、鹿島は人件費削減に背を向け、94年にレオナルド、95年からジョルジーニョという現役ブラジル代表を獲得します。これらビッグネームから鈴木氏が信頼を得るため、年に4回ほど来日したジーコは鈴木氏に心配りをしてくれるのでした。

『鈴木にとって、96~98年までのチームがひとつの指標となっている。
「まず運動量、ハードワークをしなきゃいけないっていうのがあって、次にモービリティ。例えば3-5-2でウィングバックを付けて、左にはらせておいてとかじゃなくって、流動的にサッカーをやりたいっていうのがあるんだよ。流動的には、練習していかないとなかなか難しい。流動性をもったなかで中盤の守備をどう組織化できるか。」』

鹿島のスタイルをを築く上で、もっとも重要な役割を果たしたのがジョルジーニョでした。戦うときに闘争心をむき出しにするスタイルと、チームとしてなにかをするときにはファミリーという意識付けをさすための気配りをする素晴らしい選手でした。ジョルジーニョはテクニシャンというイメージではありませんが、蹴りたいところにピタッと一発で蹴る技術は抜群でした。
日本選手の中心になっていたのが、本田泰人、秋田豊、相馬直樹の3人でした。強化責任者になった鈴木は、当初彼らの対応に助けられたといいます。

98年セカンドステージから監督がゼ・マリオに変わりますが、翌年のチーム状況は最悪となり、J2降格も見えてきたところでジーコが総監督となり、何とか残留します。
そのオフ、鈴木氏はベテラン、中堅の選手を11人ほど放出します。代わりに入団してきたのが小笠原満男、本山雅志、中田浩二、そしてユースから昇格した曽ヶ端準です。監督は、ジーコ推薦のトニーニョ・セレーゾでした。「いいオッサンでさ。一生懸命なんだよ。腹黒さがないんだよね。だから選手にバーッと言って衝突もするけど、ま、セレーゾだからな、みたいな感じで、あんまりあとに引かなかった」
00年、トニーニョ・セレーゾに率いられたアントラーズは、リーグ初の3冠を達成します。鈴木氏は、監督とのコミュニケーションの確保に気を配ったようです。

しかし03年から4年間、一つもタイトルが取れなくなります。本田、秋田、相馬ら選手がピークを過ぎていました。一方、所属選手が大量に代表に選出され、これら選手の海外志向が一気に高まったのです。鈴木隆行、柳沢敦、中田浩二らが海外へ出て行きました。鹿島には、中長期のチーム編成を考えるための年齢構成がなされていましたが、働き盛りの26、27歳あたりが海外を目指し始めたため、年齢構成に穴が空いてしまったのです。

勝てない時期、強化部長として鈴木氏の仕事が増えます。プロは勝つことで結束していく傾向が強いので、勝てない時期にチームとの一体感を失わないようにと配慮が必要だからです。そして勝てない時期でも、生え抜きの選手を中心に戦うという鹿島の流儀を貫きました。

昨年まで川崎フロンターレ監督を務めた関塚隆氏、彼はジョアン・カルロスの時代から鹿島のヘッドコーチを務めていました。鈴木氏は日本人コーチの育成のため、試合時に関塚氏がベンチに入るように変更し、監督の隣に座って、試合の流れや采配の仕方を肌で感じる機会を与えました。セレーゾ監督の時代もその関係は続き、監督としての関塚氏の成長に寄与したようです。

06年、監督はセレーゾからパウロ・アウトゥリオに代わりますが、その11月、パウロは突然退団します。鹿島のフロントは急遽1ヶ月で次期監督候補を探しだし、契約を終えなければならなくなりました。ジーコ、ビスマルク、ジョルジーニョ、ジョアン・カルロスなどにメールを送り、監督探しを始めます。特に協調性を持つことを大事にしました。5人ほどの候補が挙がります。そのとき、ジョルジーニョの「オズワルドは、鹿島に合うと思うよ」とのひとことが大きな影響を持ちました。こうしてオズワルド・オリヴェイラの招聘が決まったのです。
このようにしてバタバタと呼ばれたオリヴェイラ監督の下で、鹿島アントラーズはJリーグ3連覇を達成してしまったのです。

鈴木氏が一貫して強化部長を務めてきたことが、鹿島の継続の源だったのでしょうか。

鈴木氏は強化担当の仕事として「一番の仕事は、その組織のポテンシャルを、いかに100に近づけて発揮させるか」だといいます。
シーズン中、鈴木氏の一日は監督への朝の挨拶から始まります。監督から何か問題点を聞かされたら、その目を持って、クラブハウスの様々な場所を見て回り、監督から聞いた問題点が実際にどうなのか、自分自身で確認します。練習中の監督と選手のやり取りについても、現場にいれば監督の気持ちが分かります。
鈴木氏は強化担当になる前はコーチでしたから、自分がコーチのときに、フロントにして欲しいと思ったことを実践しているのです。
トップチームの練習が始まると鈴木氏が姿を見せます。鈴木氏は監督が新しく来たとき、「自分は監督が成功するためにサポートする。それは信用してくれ」と自分の意図を説明しているのです。
特にオリヴェイラは、監督に就任する前に前任監督やジーコから聞いて鈴木氏の仕事ぶりを熟知していたので、信頼関係を構築する作業はとても楽でした。

鹿島アントラーズは選手を「ファミリー」として遇する流儀を持っています。ジーコの時代からで、この点は再びジーコのことでも書きました。そしてその流儀を、鈴木氏らが連綿として守り続けてきたのです。
鹿島アントラーズにはもともと、獲得した選手を3年間は大事に育てる、ということをチームの哲学として持っていました。この鈴木氏のやり方に対して「甘い」という批判はこれまで何度も受けてきました。
大怪我からの回復が遅れて3年以上も棒に振った羽田憲司選手を鈴木氏はずっと面倒見続け、最後はジーコからの紹介でブラジル代表のドクターをしていた医師の治療で回復に至りました。4シーズン試合に出ていなかったので、試合勘を取り戻させることも含め、鈴木氏は羽田をセレッソ大阪にレンタル移籍させます。そこで羽田選手は活躍し、その後セレッソに完全移籍し、09年にはセレッソの主将を務めているそうです。

鹿島アントラーズを支えている考え方が、ジーコやジョルジーニョによってもたらされ、それを鈴木満氏らが伝え続けることによって継承されていることが分かりました。組織ですから、継承が途絶えることもあり得るわけですが、できるだけ長くこの伝統を引き継いでほしいものです。
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