<3387> 余聞 余話 「新型コロナウイルスの感染拡大に思う」
何が正何が負なのかただしかし命あっての物種といふ
猛威が止められない新型コロナウイルス感染症について、発生以来の感染者(陽性者)数の日々の増減を表したグラフの変化からその波を読み、三月十八日の本ブログで予想した通り、ここに至って感染拡大が起きて来た。専門家は第四波と認め、危機的状況にあるとして、国は東京、大阪、兵庫、京都の四都府県に対し、二十五日(日)よりゴールデンウイーク明けの五月十一日(火)まで人流を止めて感染を抑える狙いによる緊急事態宣言を発令した。
感染状況の波は第一波から徐々に、しかし、確実に高く大きくなっている。そして、グラフは季節に関わりなく波の状況があり、感染者を増やしている特徴を示している。これに加え変異株への変化が見られ、脅威になっているという。このグラフからなお予測するに、いままで通りの対策手法に止まれば、波のピークはより高く、より大きくなって第五波がやって来るということになる。グラフはこのように想定してかかった方がよいと見て取れる。その意味でも、今回の緊急事態宣言はよいと思えるが、これは一時凌ぎであって、宣言解除後が問題になると思われる。
この度の第四波では、強力になった変異ウイルスが強調されているが、全く新しウイルスが出現しているわけではく、従来のウイルスが変異したもの。変異して弱くなったのではなく、強くなり、感染力を増したというまでのことで、直接、間接を問わず、人から人へ感染することに変わりはない。強くなろうが、弱くなろうが、この基本的な認識において今一度このウイルスへの対処を考えた方がよい。
この問題はウイルス学もさることながら社会学的考察が必要であると言ってもよかろうと思う。人と人が幾ら大勢集まって接触しても、そこにウイルスが存在しなければ、感染はなく、問題は起きない。このことを踏まえて考えれば、見えないウイルスの見える化に努めること、これが肝心だということになる。これには検査を増やし、なるべく満遍なく検査して、陽性者を洗い出し、隔離することである。
殊にウイルス保有者(陽性者)の中に無症状者や軽症者が多いという報告がある。感染拡大にこの無症状者の問題は実に大きい。この新型コロナウイルスの特性状況を捉えるには全体的な検査を実施するほかない。ほかによい知恵があるならそれでもよいが、とにかく、新型コロナウイルスの特性であるこうした無症状や軽症の陽性者を洗い出し、対策すること。これが見えないウイルスには欠かせないと言える。遅まきながら徹底した検査をやるべきである。
そうすれば社会活動を止めることなく新型コロナウイルスの対策が出来る。もちろん、検査が万全であるとは言えない。だが、検査を実施するとしないとでは随分様相を異にする。感染を抑えるため、人流を止めるというのも一つの方法であるが、この人流を止める手法は大変難しい。何故ならその手段は陽性者も陰性者もひっくるめて行う無暗なやり方だからで、納得されないケースが現れ、利害の認識、或いは対立が生じ、宣言に従わない向きも現れることになるからである。また、根本的解決策ではないから宣言の解除後に感染者を増やすことに繋がりかねない点が指摘出来る。
緊急事態宣言はコロナ禍において三回目であるが、グラフを見るに、前二回はそれなりに効果を見せた。だが、短期的な効果であって抜本的なものではない。それは何故か。それはウイルスが潜んでいる状況が私たちには見えず、わからないからである。わからないが、ウイルスは人に関わって潜んでいる。宣言を解除して人が接触可能になると、ウイルスはまたたちまち勢いを吹き返し、猛威を振るうということになる。言わば、今回の新型コロナウイルスによる感染症の難儀は、この繰り返しがよく示している。そこで、「人流」が強調されて、宣言の発令になったのだが、十分であるとは言えない。
で、こういう展開状況にあって思われるのが今一つの懸念である。政府にはGoToキャンペーンの実施にも言えることであるが、人流を止めるとのキャッチフレーズはよいとして、さし迫った東京五輪とこの新型コロナウイルスの感染拡大の悩ましい問題をどのように考えているのかということである。オリンピックを実施するには人流を止めてはその盛り上げを図ることは出来ない。つまり、この点においてコロナ対策と整合性が取れるか、と問うてみると、なかなか難しく、矛盾が生じて来る。否、既に矛盾が露呈している。
奈良県では今月十一日と十二日に聖火リレーが実施され、法隆寺で行われた点火セレモニーに出かけてみたのであったが、大変な人出だった。マスクをしていない人はさすが見かけなかったが、感染に注意を払いながら聖火リレーを見送った。無観客で聖火を走らせている自治体もあるが、人流を止めると言いながら一方では人が集まるようなやり方をしている。
奈良県では聖火リレーで盛り上がった後、感染者が激増し、二十一日には過去最高の百十二人、二十二日には百二十五人、二十三日には九十一人に及んだ。聖火リレーが直接関係したとは言わないが、自粛している県民の行動変容を促す雰囲気をもたらしたことは確かな気がする。聖火リレーだけではない。これからオリンピックを盛り上げるには人の動き、接触の人流がなくてはならない。それも世界の人々を迎えて。どのように新型コロナウイルスとの都合をつけ、開催するのか、そこが問われる。開催するなら、選手や関係者だけでなく、ワクチンとともに検査の徹底が必要だと言える。
人流を止めると言われても、そこに顕ち現れる矛盾と不公平さに政治は果たして答えが出せるのだろうか。殊に医療の逼迫はどんなに言ってみても現実の事情による。宣言は妥当だと言えるが、このままではあたふたの状況は繰り返される。そして、他力本願のワクチン待ちということになる。ワクチンが間に合い、集団免疫の効果が発揮されれば、道は開けると思うが、果たして新型コロナウイルスの感染症はどのように展開し、どのように影響し、そして、収束出来るのだろうか。その見通しは甘くない。
写真は四月十二日午後行われた法隆寺における聖火リレーの点火セレモニーに集まった人出。セレモニーが終わって解散する見物の人たち。