大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2021年04月03日 | 写詩・写歌・写俳

<3367>  余聞 余話 「聖徳太子1400年遠忌法要」

    さくら咲く太子遠忌の大法要

 聖徳太子1400年遠忌の御聖諱「聖霊会舞楽大法要」が斑鳩町の法隆寺で始まった。三日は法華・勝鬘講による開白。予定より遅れて、午後零時五十分、本尊の聖徳太子像(七歳像)と仏舎利を納めた神輿の行列が南都楽所の道楽らとともに東院伽藍(夢殿)を出発、法要会場の西院伽藍に向かった。

 一行は特別に開けられた中門から西院伽藍の法要会場に入り、午後二時過ぎ法要を開始、南都楽所の舞楽奉納、唄、散華と続き、読経まで修せられた。コロナ禍だったが、1400年遠忌とあってマスク姿の参拝者や見物人でにぎわった。四日(日)は中日、五日(月)は結願で、法要の最終日。

                    

 聖徳太子は敏達天皇三年一月一日(五七四年二月七日)に生誕。用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女穴穂部間人皇女。初の女帝推古天皇のとき皇太子兼摂政を務め、蘇我馬子と協力して政治に取り組み、遣隋使を送って中国の文化、制度に習い、冠位十二階や十七条憲法を制定して中央集権国家を目指した。また、仏教や儒教等をとり入れ、三経義疏を著し、神道とともに信仰によって国の興隆を図った。

 法隆寺は、寺伝によると推古天皇十五年(六〇七年)、聖徳太子によって現在の西院伽藍の東南部に当たる若草伽藍跡の位置に建てられ、日本書紀によると、天智天皇九年(六七〇年)に焼失。その後、七世紀末ごろ再建され、現在の西院伽藍があるという。聖徳太子は推古天皇の後継第一にあったが、推古天皇在位二十九年(六二一年)二月五日亡くなり、天皇になれなかった。享年四十九歳。

                                 

 なお、法隆寺大宝蔵殿では、遠忌法要を記念して「法隆寺の信仰と宝物」特別展が開かれている。文殊菩薩騎獅像(二十七年ぶりの公開・室町時代)をはじめ、聖徳太子二歳像(室町時代)など、仏像、仏画を主に国宝、重文など79件を六月末まで展示(入館有料)。また、夢殿では救世観音像(国宝・飛鳥時代)の特別開扉も五月十八日まで行っている。

 写真上段は満開の桜の下、遠忌法要会場の西院伽藍に向かう聖徳太子像等の行列(右後方は夢殿)、写真下段はコロナ禍とあって行列に参加の人たちも見物する人たちもマスク姿が目立った(法隆寺中門前で)。