大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2021年04月20日 | 植物

<3383> 奈良県のレッドデータブックの花たち(41) オオバスノキ(大葉酢の木)           ツツジ科

            

[学名] Vaccinium smallii var.smallii

[奈良県のカテゴリー]  希少種

[特徴] 山岳高所の明るい岩崖や低木林の林縁に生えるスノキの母種として知られる落葉低木。高さは1~1.5メートルになる。葉は長さが3~8センチの長楕円形乃至は卵状長楕円形で、先はやや尖り、基部はくさび形。縁には細かな鋸歯が見られる。表面は緑色。裏面は淡緑色。主脈には毛が生える。葉にほとんど柄はなく、互生する。花期は6~7月で、前年枝の葉腋に総状花序を出し、淡緑色に紅色を帯びた花を多いもので数個つける。花冠はスノキよりやや大きく、長さが7ミリほどの鐘形で、先が浅く5裂し、裂片は反る。液果の実は直径1センチ弱の球形で、秋に黒紫色に熟す。

[分布] 北海道と本州の中部地方以北の日本海側に多く、近畿地方、四国北東部の山岳に見られる。国外では南千島とサハリン。

[県内分布] 東吉野村、上北山村、天川村の大峰・台高山脈の高所岩場の局所に限られる。

[記事] 葉が他種より大きく、葉を噛むと酸っぱいのでこの名がある。種名のmalliiは江戸時代末期に日本へ派遣され、植物採集に当たったアメリカ北太平洋調査探検隊員スモールに因む。 写真は花をつけたオオバスノキ(撮影は大峰山脈(山上ヶ岳)の高所寒温帯域で、花柄に苞葉が見られる点によってオオバスノキと見た)。シカの食害が懸念されている。

   同じ時と所を得て生きているということは

   同じ環境おいて生きているということになる


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2021年04月19日 | 創作

<3382>  写俳百句  (51)   ゲンゲの花咲く陽気

                     紫雲英咲き遠く電車の走る音          紫雲英(げんげ)

                                             

 よい天気の春の一日。大和地方では田起こし前、ゲンゲの田圃一面に蓮華色の花が満ち溢れ、男の子の節句を祝う鯉のぼりが彼方に揚がり、遠くから風に乗って電車の走る音が聞こえて来る。JR大和路線の電車に違いない。心地のよい響きで、大和川の鉄橋を渡るときの音の違いも旅の風景を想像させる。

 ゲンゲの写真を撮りながら新型コロナウイルス禍の影響によって久しく電車に乗っていないことが思われた。どこか近場でもよい。旅がしたいという気分。車なら大丈夫だろう。一昨年の秋、比叡山と琵琶湖に一泊の小旅行を楽しんだ。あれ以来旅らしい旅はしていない。自粛気分の日々。という次第で、自粛疲れでもないが、気分転換を望むところ。この心持ちに春の陽気。今宵は地図の旅でもしようか。 写真はイメージで、ゲンゲの咲く田圃。


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2021年04月18日 | 写詩・写歌・写俳

<3381> 野鳥百態 (12)  シラサギと小魚

      概して 生きものの 命というのは

               ほかの命に与って 生かされている

             感謝のほかはない この関係性において 思うに

               奪われ 或いは 傷つけられた命は

               奪い傷つけたものの 命の中で存在し 生きる

               これは 一見 酷いように思えるが

               この世の 生全般における 命の循環として

               宿命的に組み込まれている仕組みに違いない

               つまり この仕儀は 無念の 修羅にはあらず

       私たちには 見えづらいけれども

               この世における これは まさに

       生の公平な仕組みの 現われと見なせる

                               

 この写真には日常における生、即ち、命の尊厳が見える。この写真を見ていると、柳田國男の『野鳥雑記』の中の「翡翠の嘆き」の次の一文を思い出す。

   物の命を取らねば生きられぬものと、食われてはたまらぬ者との仲に立っては、仏すらも取捨の採決に御迷いなされた。終には御自身の股の肉を割愛して、餓え求むる者に与え去らしめたというがごとき、姑息弥縫の解決手段の外に、この悲しむべき利害の大衝突を、永遠に調和せしむる策を見出し得なかったのである。

 とある。加えて、「単に金魚が可愛そうだということは、一般にカワセミを納得せしむる理由としては不十分だと思う」と言っている。この写真のシラサギと小魚の関係性にも言える。そして、この光景はシラサギと小魚における日常茶飯に展開されていることを忘れてはならない。所謂、この光景は生の現実に厳然としてあることを物語る。

   この写真に、写真など撮らず、石でも投げてシラサギを追っ払い、小魚を助けるべきが人情だというような意見もあるだろう。が、生におけるこの問題は、そんな憐みの同情心では解決しない。そして、解決しないのが生の自然における定めとしてあることが思われて来る。

 それにしても、シラサギの長く鋭い嘴に挟まれた小魚は観念しているのか、その目は辛いとか悲しいとか無念とかという気持の現われにはなく、観念の安らかさにある身を映しているようなところがある。

   小魚には悲惨な現実の光景に違いないが、シラサギに食われる宿命において、小魚の一生は食われることによって終わるのではなく、シラサギの命の中に入ってシラサギとともに生き、ときには憧れていた大空を飛ぶというような望みも叶えることが出来る。

   不思議にも小魚の目は負け惜しみでないやさしさを湛え、シラサギの目に対している感がうかがえる。シラサギには命をいただく小魚に感謝のほかはない。と、そのように思われることではある。 写真は長い嘴に小魚を咥えるシラサギ。横向きの小魚を一息入れて、縦向きにし、頭から一気に呑み込んだ。

 


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2021年04月17日 | 創作

<3380>  作歌ノート   曲折の道程(六)

            楽しむにあらずや心ひとさまの不幸によりてものを聞くとき

 ロマン・ロランは『ミケランジェロの生涯』(高田博厚訳)の中で「幸福の権利(これはほとんど常に他人の不幸への権利に過ぎない)を騒ぎ立てて要求するこの卑劣者たち」と述べている。知る権利、表現の自由は人さまの不幸に寄ってものを聞き伝えるとき如何にあるべきか。騒ぎ立てれば売れる世の常。その常に商業主義が幅を利かせる。

   かかる不幸「如何か」と問ふ君ゆゑにロマン・ロランと白梅の朝

   もの足りて心足らざるゆゑなるか世上に満つる人を刈る声

   人を撃つ自由ばかりが先走り権利のすがたあるは憎まる

  「知る権利」誰に向かひて言ふべきか彼我の間にて敢へて問ふべし

   正義とは誰に向かひて言ふ言葉なりやマスコミなども問はるる

   当事者に傍観者あり常のこと傍観者概して饒舌にあり

   何に寄り論をなすかをこそ思へ人を俎板の上に置くこと

   あげつらひ人を嗤へば福来るか畢竟昏し汝の臓腑

   皮肉とは言ひやる言葉自らは俎上に置かぬ鋭さにあり

                                 

 傍観的論者は大概優越性をもって論をなし、饒舌である。当事者より傍観者の方に饒舌が見える。当事者は事に知悉しているゆえにかえって語ることに躊躇し、寡黙になる。傍観者たる論者(評者)は人を批評するとき、自分に関わりなく話せるゆえに語り口が滑らかになる。そこで、老子は言う。「知者不言、言者不知」と。また、ゲーテに一言あり。「卑怯者は、安全なときだけ居丈高になる」(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』)と。

 老子の言葉からすれば、お喋りはわかりもしないのにわかったように喋り、ゲーテの言葉からすれば、人間は概して卑怯者で、発言者は大概自分の安全なところから論をなすゆえ、大体卑怯者と言わざるを得ない。テレビのトーク番組などもこの類か。ところが、昨日の論者、傍観者が今日の当事者ということもあり得る。これは一つの見識であり、みなよくわかっているはずなのに、愚かな者たちは「人の不幸は蜜の味」などと言う。

 蜜の味は美味。その典型は醜聞であろう。芥川龍之介は「醜聞さえ起こし得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼らの怯懦を弁解する好個の武器を見いだすのである。同時にまた実際には存しない彼らの優越を樹立する、好個の台石を見いだすのである」 (『侏儒の言葉』)と。真の幸福かどうか、俗人たちは、蜜の味を味わった後、「豚のように幸福に熟睡」するのである。

  衆論の賑はひ誰かの幸せが壊されてゐるときかも知れぬ

  情報といふ怪物に操られ操られつつ軋む夕暮

  情報は速やかにして怪となるああ人ひとり貶めるなど

  心より愚かなものは払ふべし彼のベルリンの壁のごとくに

 ところが、強者とか権力者に媚を売る俗人たちは好個の矛先を弱いものに向ける。所謂、いじめに向けるということがある。昨今、この傾向が著しく、いじめによって死に追いやられた子供のニュ-スは珍しくない。もちろん、子供は大人の環境下にあり、大人にその学習を負うところが大きいから、子供の様相は大人の世界の反映と見なせる。大人の間でも子供と同様の様相が展開されているとみるのが正しかろう。

   そんな中で、注目されるのが言葉のいじめである。言葉の刃物は心を刺し、心に痛手を負わせる。現代はまさにその心の痛みにうめく姿の絶えない時代と言ってよく、子供の世界によく現われている。この状況は、期待がかけられて入った新時代においても、戦禍の状況に等しく、一向に変わることがないように思われる。

   哲学の必要性をもの足れる時代に死するものと語らむ

   哲学を欲するものと自負の歩をああ弱きもの我も汝も

 「新時代」とは二十一世紀のことであるが、それ以後も、問われ続けるこの種の人間性の問題は芥川龍之介の時代から向上したところは見られず、コミュニケーションが進化して、SNSなどで簡単に情報が拡散するようになった現代にあってはより深刻化している感がある。誰もが発言出来、発信出来る状況は現代人が勝ち得た知能の成果であるが、このコミュニケーションの進化によって情報の拡散がより早くより広く行き渡り、同調圧力となり、より一層、ターゲットに集中し攻撃がなされる現象が生じるようになった。

 これに昔と変わらない旧態然としてある人間性の反映した社会が組み込まれ、よりこの問題を深刻化させていると思える。そして、厄介なことにSNSが有する同調圧力となる個々の発言者が自らを正当化してターゲットに向かい、血祭りにあげるという特徴にある点である。テレビ番組に出演していた若い女性タレントが自殺に追い込まれた事件があったが、この事件は典型的な例としてあげられよう。 写真はイメージで、朝日を受けて咲く白梅。

 


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2021年04月16日 | 植物

<3379> 奈良県のレッドデータブックの花たち(40) オオバクサフジ (大葉草藤)     マメ科

                                 

[学名]  Vicia pceudo-orobus

[奈良県のカテゴリー]     絶滅寸前種

[特徴] 山地の林縁や丘陵地の草地などに生えるつる性の多年草。稜があるつるの茎は他物に絡みついて1.5メートルほどに伸びる。葉は長さが3~5センチの卵形乃至は楕円形で、軟らかい小葉はよく似るツルフジバカマより少なく、4~10個の偶数羽状複葉になる。茎の先は分枝する巻き髭になり他物に絡む。短い柄の基部には托葉があり、互生する。花期は8~9月。葉腋に総状花序を出し、長さが1.5センチほどの紅紫色の蝶形花を多数つける。実は豆果で、長さが3センチほどの狹楕円形。

[分布] 北海道、本州、四国、九州。国外では朝鮮半島、中国、アムール、ウスリー、シベリア東部。

[県内分布] 御所市の金剛山

[記事] 近年、外来種のナヨクサフジが大繁殖し、奈良盆地の平野部では席巻しているが、これに反し、オオバクサフジは山際に押しやられ、風前の灯の感がある。 写真は花期のオオバクサフジ(左)と花序のアップ(右・セセリチョウが来ていた)。

   野生は自然環境の下に生を得て

         その生を展開している存在である