<3380> 作歌ノート 曲折の道程(六)
楽しむにあらずや心ひとさまの不幸によりてものを聞くとき
ロマン・ロランは『ミケランジェロの生涯』(高田博厚訳)の中で「幸福の権利(これはほとんど常に他人の不幸への権利に過ぎない)を騒ぎ立てて要求するこの卑劣者たち」と述べている。知る権利、表現の自由は人さまの不幸に寄ってものを聞き伝えるとき如何にあるべきか。騒ぎ立てれば売れる世の常。その常に商業主義が幅を利かせる。
かかる不幸「如何か」と問ふ君ゆゑにロマン・ロランと白梅の朝
もの足りて心足らざるゆゑなるか世上に満つる人を刈る声
人を撃つ自由ばかりが先走り権利のすがたあるは憎まる
「知る権利」誰に向かひて言ふべきか彼我の間にて敢へて問ふべし
正義とは誰に向かひて言ふ言葉なりやマスコミなども問はるる
当事者に傍観者あり常のこと傍観者概して饒舌にあり
何に寄り論をなすかをこそ思へ人を俎板の上に置くこと
あげつらひ人を嗤へば福来るか畢竟昏し汝の臓腑
皮肉とは言ひやる言葉自らは俎上に置かぬ鋭さにあり
傍観的論者は大概優越性をもって論をなし、饒舌である。当事者より傍観者の方に饒舌が見える。当事者は事に知悉しているゆえにかえって語ることに躊躇し、寡黙になる。傍観者たる論者(評者)は人を批評するとき、自分に関わりなく話せるゆえに語り口が滑らかになる。そこで、老子は言う。「知者不言、言者不知」と。また、ゲーテに一言あり。「卑怯者は、安全なときだけ居丈高になる」(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』)と。
老子の言葉からすれば、お喋りはわかりもしないのにわかったように喋り、ゲーテの言葉からすれば、人間は概して卑怯者で、発言者は大概自分の安全なところから論をなすゆえ、大体卑怯者と言わざるを得ない。テレビのトーク番組などもこの類か。ところが、昨日の論者、傍観者が今日の当事者ということもあり得る。これは一つの見識であり、みなよくわかっているはずなのに、愚かな者たちは「人の不幸は蜜の味」などと言う。
蜜の味は美味。その典型は醜聞であろう。芥川龍之介は「醜聞さえ起こし得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼らの怯懦を弁解する好個の武器を見いだすのである。同時にまた実際には存しない彼らの優越を樹立する、好個の台石を見いだすのである」 (『侏儒の言葉』)と。真の幸福かどうか、俗人たちは、蜜の味を味わった後、「豚のように幸福に熟睡」するのである。
衆論の賑はひ誰かの幸せが壊されてゐるときかも知れぬ
情報といふ怪物に操られ操られつつ軋む夕暮
情報は速やかにして怪となるああ人ひとり貶めるなど
心より愚かなものは払ふべし彼のベルリンの壁のごとくに
ところが、強者とか権力者に媚を売る俗人たちは好個の矛先を弱いものに向ける。所謂、いじめに向けるということがある。昨今、この傾向が著しく、いじめによって死に追いやられた子供のニュ-スは珍しくない。もちろん、子供は大人の環境下にあり、大人にその学習を負うところが大きいから、子供の様相は大人の世界の反映と見なせる。大人の間でも子供と同様の様相が展開されているとみるのが正しかろう。
そんな中で、注目されるのが言葉のいじめである。言葉の刃物は心を刺し、心に痛手を負わせる。現代はまさにその心の痛みにうめく姿の絶えない時代と言ってよく、子供の世界によく現われている。この状況は、期待がかけられて入った新時代においても、戦禍の状況に等しく、一向に変わることがないように思われる。
哲学の必要性をもの足れる時代に死するものと語らむ
哲学を欲するものと自負の歩をああ弱きもの我も汝も
「新時代」とは二十一世紀のことであるが、それ以後も、問われ続けるこの種の人間性の問題は芥川龍之介の時代から向上したところは見られず、コミュニケーションが進化して、SNSなどで簡単に情報が拡散するようになった現代にあってはより深刻化している感がある。誰もが発言出来、発信出来る状況は現代人が勝ち得た知能の成果であるが、このコミュニケーションの進化によって情報の拡散がより早くより広く行き渡り、同調圧力となり、より一層、ターゲットに集中し攻撃がなされる現象が生じるようになった。
これに昔と変わらない旧態然としてある人間性の反映した社会が組み込まれ、よりこの問題を深刻化させていると思える。そして、厄介なことにSNSが有する同調圧力となる個々の発言者が自らを正当化してターゲットに向かい、血祭りにあげるという特徴にある点である。テレビ番組に出演していた若い女性タレントが自殺に追い込まれた事件があったが、この事件は典型的な例としてあげられよう。 写真はイメージで、朝日を受けて咲く白梅。