大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2019年01月19日 | 写詩・写歌・写俳

<2571> 余聞、余話 「梅原猛さんの逝去に寄せて」

     師は常に我が行く先にありながら意識の端に顕ち現るる

 平成最後の年に哲学者の梅原猛さんが亡くなった。九十三歳だった。独創的な仮説による『隠された十字架 ―法隆寺論―』に始まり、『水底の歌 ―柿本人麻呂論―』、『赤人の諦観』、『神々の流竄』など既成の概念や見解に対し、権威的でない当事者目線をもってその資料に真っ向から挑み、次々に特異の論を展開し、発表した。これらの著作に、私などは歴史の真実が何処にあるのかという点に興味を抱きながら読んだ。

                               

 梅原さんの仮説には大胆で鋭いところが感じられるが、それは史実に対し従来の常識的見解に縛られず、当事者の思いを探り、歴史の真実を見つめようとした点にあると思われる。梅原さんはこうした既成概念に彩られた教科書的史実への問いかけを展開する一方、哲学者として現代文明への問いを欠かさず発し続けて来た。私などはこうした梅原さんが発信する考え方に惹かれるところがあった。その論は問いかけの形で展開されることが多かったように思われるが、その問いは日本的自然観に基づくもので、西洋文明の象徴的存在である理性主義のルネ・デカルトに向けられていたことが今も思われる。

 デカルトの理性主義は理性を有する人間が一番であるとうい思想で、このデカルトの考えは科学技術に後押しされ、どこまでも理性的人間が優位にあるとし、自然は対立要素に過ぎず、人間に征服される対象と見なされてあった。これに対し、梅原さんは自然があって、その自然の万物の中にいろんな生きものがいて人間も存在するという論を張った。これは神を自然の中に捉える日本的な考えで、和辻哲郎の『風土』の論にも通じ、作家吉川英治の座右の銘「我以外皆我師」にも通じるものの考え方であると、私などは当時からこのように理解していた。

 こうした自然に立脚した考えは、自然に対する畏怖と敬意から来ているもので、人間自身を謙虚に見ていることの証と受け止められ、それは死生観にも通じ、死というものを見つめ考えたことでも知られる。親鸞を語り、日本精神の一系譜として書かれた『地獄の思想』などにも反映されている。で、「我思うゆえに我あり」とする理性における人間は死なないとするデカルトの論に真っ向から疑問を呈したのであった。

 とにかく、梅原さんの存在は、日本の古代史の捉え方に始まり、西洋哲学に影響されて来た日本における現代文明への懸念まで、その思想的一貫した裾野の広さを持っ梅原ワールドと言ってもよく、一人の哲学者であるが、思想家としての影響力大にして、何か現代日本には重石的存在であると感じられたことが今さらのように思われて来る。

  デカルトに発する西洋文明の延長上にある日本の現代文明に疑問を呈し続けて来た梅原さんが見ていた理想の風景というのは日本人の自然観に基づいていたということを思い返すに、その死は何とも淋しい感がある。

 


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2019年01月16日 | 植物

<2568> 大和の花 (705) ス ギ (杉)                                      スギ科 スギ属

            

 本州、四国、九州(屋久島まで)に分布し、北海道には見られない日本固有の常緑高木の針葉樹で、日本が誇る樹種の一つでる。本来は山地の沢沿いなどに自生するが、各地で植林され、どこに行っても容易にその姿に接することが出来、自生と植栽の区別が難しいところがある。

 高さは大きい個体で50メートル、幹の太さは直径5メートルに達するものもあり、樹形が楕円状の円錐形で美しく、植林されたスギ林は美林を誇る。樹皮は赤褐色で厚く、縦に裂ける特徴を有する。葉は長さ1センチほどの針形で、先が尖る。また、葉は多数が小枝に螺旋状につき、枯れると枝ごと落ちる。冬には赤褐色を帯び、春に緑色に戻る。スギは寿命が非常に長く、屋久島の推定樹齢数千年の縄文杉は有名である。

 雌雄同株で、花期は3月から4月ごろ。雄花は枝先に多数つき、長さが5ミリから8ミリほどの楕円形で、淡緑色から淡黄褐色になる。スギは風媒花で、雄花は大量の花粉を放出し、風に運ばれ飛散する。この花粉は人体に悪影響を及ぼし、毎年春になると花粉症の被害を出す。雌花は直径2、3センチの緑色の球形で、その後球果になり、秋に熟して褐色になる。

 スギ(杉・椙)は古来より知られ、『古事記』の須佐之男命が退治した八岐大蛇に生えていたという神話に登場するほか、『万葉集』には12首に見える万葉植物で、神木として詠まれている歌が多く、古来より神聖視されていたことがわかる。これはスギの寿命が長いうえ、巨木になるから、託す気持ちになったからではないだろうか。

  スギはヒノキとともに日本の造林業の主役的樹種で、造林面積は全体の40パーセントを占めるに至っている。山地面積の広い大和(奈良県)ではスギの植林が広く行われ、吉野川の上流域の山地は「吉野杉」の産地として全国的に知られている。このため、奈良県ではスギを県の木、吉野や宇陀地方の自治体では市町村の木に指定しているところが多い。

  また、各地に神木にされているスギの巨樹や古木が見られ、注連縄が施されているものもよく見かける。このように、社寺に見るべきスギが多く、『奈良の巨樹たち』(グリーンあすなら編)によると、春日大社神殿の大杉(推定樹齢700年)をはじめ、県内の16箇所のスギが見られ、紹介されている。その中で1000年以上の樹齢を誇るものとして十津川村・玉置神社の神代杉(3000年)、宇陀市・桜実神社の八房杉(2000年)、同市・室生寺の大杉(1000年)が古木のベスト3としてあげられている。また、大きいものでは、玉置神社の大杉(幹周10.3メートル・高さ45メートル)を筆頭に、高さで言えば、45メートルの室生寺の大杉、40メートルの宇陀市・竜穴神社のスギ、同市・白岩神社の大杉、下北山村・明神池池神社のスギ、玉置神社の盤余杉などが見られる。

 玉置神社の神代杉は中が空洞で、他の木の寄生なども見られ、老木の姿であるが、神代の時代から生き続けて来た自生のものと見られている。境内は玉置山(1076メートル)の山頂直下の3万平方メートルに及び、「全国に誇れる鎮守の森で、スギ、ヒノキの巨樹群が占めている」と説明されている。なお、桜実神社の八房杉は国の天然記念物。御所市・佐味田大川の神杉、宇陀市・高井の千本杉、玉置神社の神代杉は奈良県の天然記念物に指定されている。

 材は軽く、木目が美しいことから建築、家具、器具、割りばし、塗り物の木地、土木用材など幅広く用いられている。樹皮は屋根を葺き、家の外張り、垣根などにする。葉は線香や抹香にされ、酒屋の店先に吊るす薬玉に用いられる。また、葉は煎じて飲めば、利尿、脚気等に効くという。 写真はスギ。左から雄花、若い球果、積雪のスギ林、玉置神社の神代杉。   動じざる杉の大樹のその姿寄り添ひ触るるその拠りどころ

<2569> 大和の花 (706) ラクウショウ (落羽松)                          スギ科(ヒノキ科) ヌマスギ属

               

 北アメリカ東南部からメキシコ原産の落葉高木の針葉樹で、高さは20メートルほどになる。樹形は円錐形で老木になると丸みを帯びて来る。樹皮は赤褐色で、縦に裂けて剥がれる。幹の根本は凹凸が目立つ。枝は褐色。葉は長さが1、2センチの線形で、軟らかく、側枝につき、羽状に互生する。若葉は新緑が瑞々しく、秋には赤褐色に色づき、側枝ごと落葉する。

 雌雄同株で、花期は4月ごろ。葉の展開する前に長さが10センチから20センチの花序を垂れ下げ、小さな多数の雄花をつける。雌花は緑色で、枝先に数個つく。球果の実は直径3センチ前後の球形で、葉が色づきを増すころ緑白色から褐色に成熟する。熟すと果鱗が開いて種子を出す。

 所謂、外来の帰化植物で、日本のものは植栽起源である。水湿地や池辺、または川辺を好適地とし、ほかの木にはあまり見られない周辺の地中から伸び出す膝根(しっこん)と呼ばれる呼吸根を出す特徴がある。ラクウショウ(落羽松)の名は水平に並んでつく枝葉を鳥の羽に見立て、落葉することによる。別名のヌマスギ(沼杉)は沼のほとりに生えることによる。 

  大和(奈良県)では公園で見かけることが多く、広陵町の県営馬見丘陵公園の上池畔はよく知られる。 写真は左から瑞々しい6月の姿、紅葉真っ盛りの11月の姿(点々と白く見えるのは球果)、熟し始めた球果、膝根。   手をつなぎ見上げる二人の落羽松幸せ色に染める新緑

<2570>  大和の花 (707) メタセコイア                              スギ科(ヒノキ科) メタセコイア属

                                        

 中国南西部原産の落葉高木(針葉樹)で、絶滅したと考えられていたが、1945年揚子江の支流で発見され、生きる化石として有名になり、日本にも帰化し、公園樹や街路樹として見られるようになった。高さは20メートル超になり、樹冠は円錐形で整っている。樹皮は赤褐色で、縦に剥がれる。葉は長さが2、3センチ、幅が1ミリほどの扁平な線形で、軟らかく、側枝に対生し、秋には赤褐色に色づき、側枝とともに落ちる。ラクウショウ(落羽松)によく似るが、本種は葉が対生する。

 雌雄同株で、花期は2、3月ごろ。雄花は長さが2センチほどの楕円形で、枝先から垂れ下がる花序に多数つく。雌花は短枝の先に1個ずつつく。球果は長さが1.5センチほどのほぼ球形で、果鱗を開いて種子を出す。種子を出した後も枝に残ることがある。ラクウショウより球果は小さい。 写真は雄花をいっぱい垂れ下げた早春の姿(左)、雄花を多数つけた雄花序(右)。  故郷は何れにもあり草木にもメタセコイアが天を指しゐる

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2019年01月15日 | 写詩・写歌・写俳

<2567> 余聞、余話 「時代の変遷 ~ネット社会の出現~」

      知と感のあまた行き交ふ現代のこの世観なる一個のこの身

 手許に一冊の本がある。昭和三十六年(一九六一年)に出された『大衆と大衆伝達の原理』(井上吉次郎著)という二〇〇ページほどの、社会学的考察によるマスコミュニケーション論と言ってもよいか、約半世紀前、マスコミュニケーション論が華々しく展開されていたころの、言わば、この筋の本としては古典に属するものと言ってよかろう、私には学生時代に読んだ本である。

  何故この古い本を本棚の隅から引っ張り出し、読み返す気になったか。それは当時のマスコミュニケーションとほぼ同時に出現して来た大衆の時代から今まさにインターネットの双方向性の伝達方式によって出現して来たネット社会の大衆時代が来て、それに傾斜しつつあることによる。つまり、マスコミュニケーションの伝達方式とともにあった大衆見参の社会からインターネットの双方向性の伝達方式によって生まれたネット社会への変革を考えてみたかったからである。

 この本は、語彙的にかなり難しい本であるが、マスコミュニケーションとほぼ同時に出現した大衆社会を論じ、次にマスコミュニケーションが大衆社会の出現に果たした役割について見ている。そして、これに加え、マスコミュニケーションのあり方に話を進めている点もあげられる。まず、はじめに、社会の概念から入り、社会が交通によって成り立っているという点に着目し、そこから論は始められている。

                                                        

  社会というのは交通を必要条件とし、交通がなければ社会は成り立ち得ないという点に基づき、論の展開に入っている。まず、交通とは互いが関係することで、物流のみならず、精神的な意識交通も重要な要素と捉え、この本では後者の意識交通の方に焦点を当て、言葉や映像の重要性を認識に置きながら意識交通であるコミュニケーションの影響において展開してゆく社会を考察している。

 社会は人と人との交通によって暮らしの中に生じて来たが、その後、交通手段が発達し、大量交通が可能になるに従い、社会も大きくなり、当然のことコミュニケーションの量も増大し、その伝達方法にも変化を来たし、所謂、マスコミュニケーションの時代を迎えるに至るわけである。新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどがマスコミュニケーションの大量に及ぶ意識交通の役目を担うようになったことに論及は進む。

  マスコミュニケーションのマスはmassで、massは大量を意味する。そして、マスコミュニケーションによる大量の情報によっていよいよ見参を明らかにしたのがmasses、即ち、大衆であるという。この大衆が作り上げたのが大衆社会で、その大衆の内実の反映をして語られるのが大衆文化ということになる。このmassesの大衆の時代は物流にも現れ、大量生産、大量消費に反映され、資本主義の影響もあり、大家族制から小家族の核家族化が社会において進んだのと軌を一にしている。

 で、massesの大衆というのは、老若男女はもとより、地位や貴賤にかかわらず、人種、民族、国家、団体等、また、思想、信条などにも左右されることのない性質を有する大多数を意味し、それは群集、公衆、民衆、庶民、国民といった概念では括れない社会の大多数の心理的要素によってなるものと考えられ、その実態は掴みどころのない従順と計り知れない性質を内在しているものであると認識された。

  こうした大衆を導き育てる役目を果たして来たのがマスコミュニケーションで、その大衆の内実の様相をして大衆文化と捉え、一億総白痴化という言葉や世論という言葉を生み、その言葉などにも言及している。ここで重要なのは、この伝達方式がほぼ一方通行の状況にあったことで、その伝達方式が大衆を大きく左右したと見ていることである。

  で、大衆はマスコミュニケーションの伝達方式によって従順な上に寡黙にならざるを得ない環境状況に浮遊し、マスコミュニケーションの送り手であるマスメディアの権威を高め、あるはオピニオンリーダーなどという言葉も発せられて来るという認識が生じ、こうした状況において、この本ではマスメディアの責任にも論を展開している。

 そこで言われるのが、大量の意識交通(今でいう情報伝達)の担い手であるマスメディアの重要性で、マスコミュニケーション(報道)における送り手の公正、信憑性、良識、平等、中立、客観性、公序良俗などが求められ、新聞社においては新聞綱領、テレビにおいては倫理規定などが定められ、この良心の方向性を見失うことのないようにした。言わば。これらの課題は一方通行の送り手側のマスメディアの責任として委ねられ、マスメディアの良心によって受け手である大衆との信頼関係を構築し、マスコミュニケーションの方式を可能ならしめたということになる。ときに信頼を欠くような出来事も生じ、この点におけるトラブルがなかったわけではないが、それは特異例としてその都度処理され、概ねその信頼関係は崩れることなく保たれ、現在に至っているという次第である。

 このマスコミュニケーションと大衆社会の関係性について、著者は『大衆文化』という別の本において「十人の子をもつ家が、ドブ池へ行って、ランニング・シャツを一ダース買い、男の子も女の子も無しゃ別に着せる、という話を聞いた。これが現代マス・コミ受手各戸の受信方式だ」と大阪の繊維問屋街のドブ池を例に示して言及している。マスコミュニケーション全盛の時代において大衆はこの方式下で概ね満足し、了解していた。

 また、受け手である大衆の信頼を得るための送り手側の心構えについても、二十世紀前半のイギリス人記録映画制作者ジョン・グリア―ソンの言葉を引いて啓蒙の言葉とし論じている。「Observe and analyse  know and build  Out of research poetory comes」というのがその言葉で、命令形であるのが意味深長なところ、直訳すると、「観察し、そして、分析せよ」「知れ、そして、構造(構築)せよ」「(こうした)調査から詩が生まれ来る」となるが、この言葉は送り手側の立場にあるジョン・グリア―ソン自身が自分に向けて発し、言い聞かせた戒めの言葉であり、自分を鼓舞している言葉と理解出来る。そして、それはマスメディアの送り手側の全てに共通して発せられるに等しい言葉として受け取れる言葉になっているのがわかる。

  Poetory(詩性)とは、新聞で言えば、記事のReality(真実性)に当たり、優れて信頼される記事はこの言葉に込められたような努力がなくてはならないと言っているわけで、情報の送り手側にある者は、このようにあらねばならないということを示していると受け取れる。これはマスコミュニケーションの伝達方式の図式において、送り手のマスコミ人が影響力を持ち、あるはオピニオンリーダーとして一種の権威のようになって大衆社会をリードする立場にあり、送り手自らにその厳しさを課すことによってその関係性が保たれるという認識があったからで、その一つの例としてあげているわけである。

 こうしたマスコミュニケーションのほぼ一方的大量の伝達方式に進化(あるいは変革)を加えたのが、パソコンの普及とインターネットの構築による二十一世紀の花形として登場して来たネットの存在であり、『大衆と大衆伝達の原理』から話を進めれば、その存在における享受者として出現したのがネット社会のネット大衆ということになるわけである。グローバルに及ぶ双方向性の意識交通を可能にしたインターネットの方式によるネットはマスコミュニケーションが作り上げて来た大衆社会に溶け込むと同時に、その特質をもってマスコミュニケーションが有する大衆社会の大海に入り、双方向性という大きく鋭い銛を無数に撃ち込み、衝撃を与え、今に及んでいるという次第である。

  そのもっとも顕著な変化は、日常坐臥における表立たない心情的な変化にある点、気づき難いところがあるが、それはマスコミュニケーション論の中で言われて来た大衆が有する性質に当面して来たことで、まさに大衆の変化ということに行き着く。言わば、ネットの双方向の伝達方式によって獲得した大衆個々の権利、つまり、個々人が自由に支障なく発言(発信)出来るその発言が大多数の大衆みんなに、それも即応して伝え得るようになったことである。この状況はマスコミュニケーションの時代とは明らかに異なる情報授受であり、同じ大衆でも異なる大衆をネットは生み出したということになるわけである。言わば、大衆における抑制の開放がネット社会には、良しにつけ悪しきにつけ、見られるようになったのである。

  つまり、ネット社会では個々人誰もがネットを介してみんなと繋がることが出来、自分の意志を発することが出来る。別の言葉で言えば、自己主張ということになるだろう。そこには大衆個々の意志が反映され、ネットはその可能性を秘めて常にあるという状況を構築しているということになる。これはマスコミュニケーションの伝達方式の時代には考えもつかなかったことで、この状況の変化は各方面に既に現れているが、これは個人主義の深化という点にあると言える。例えば、マスコミュニケーションの全盛時代には一種のブランド商法に大衆の迎合が見られたが、ネットの双方向性の伝達方式の時代は顧客個々の個性に対応し、直接の繋がりが持てるに至り、顧客の欲求を商品に反映させるZOZOTOWNのような商法が成り立ち成功しているのである。これはまさに双方向性の伝達方式に負うところで、個人主義の深化をより促していると言える。言葉を変えて言えば、より進化した多様性の顕現に通じる。

  マスコミュニケーションの時代もアメリカの個人主義(自由、平等)の精神が先導し、日本においても社会的状況が資本主義の考え方と連動し、個人主義的家族制である核家族化を進め、大衆というものを重んじて来た。「消費者は神様」とか「消費者は王様」というような言葉が聞かれたのはマスコミュニケーション全盛の時代で、その時代には申し分のない言葉であった。所謂、massesの大衆を意識に置いた言葉である。しかし、この状況になお個人主義の立場はもの足りず、次の段階であるネットの双方向性の方式を、科学技術の向上によって生み出したのが今般のネット社会と言える。

  このネットの伝達方式は、自由平等の個人主義を理念に掲げる国民性の国アメリカの属性で、究極の方法であると言えるが、この個人主義の理念においてネットがアメリカに発したことは、これまでの経緯を顧みるに、必然的精神性に基づくものであると受け取ることが出来る。これは余談になるが、アメリカのトランプ大統領はネットをよく活用している。これに対し、中国の習近平国家主席はネットに否定的で、ネットの情報を遮断する措置に出たりしている。これは社会主義国と個人主義に基づく自由主義国の立場の違いが出ているが、このネットの用いられ方を見ると、良し悪しは別にして、ネットが個人主義的自由平等な特質を有していることをよく表していると捉えることが出来る。

  そして、ネットにおける大衆はものの言えない大衆からものが言えてその意志を発言乃至発信出来る大衆に変貌し、直接ものが言えなかったマスコミュニケーション時代の大衆を性情的に変えたということになるわけである。で、ネットの時代になって大衆の個々人はみんなに向かって発言し、自己の開放を始めたのである。こうした大衆の変化の状況は従来の方式の上に成り立って、それが常識のようになっていた大衆社会を変えずには置かず、大衆社会に動揺をもたらすに至った。それが、良しにつけ悪しきにつけ、ネットの生みの親の足許であるアメリカにおいて展開されているのが、ネット派のトランプ大統領と従来のマスメディアとの対立の構図である。この対立はネットが十分に認知されるまで当分続くのではないかと思われる。

  日本では最近外国人旅行者の急増する喜ばしい状況が現出している。この状況にはいろんな要因が絡んでいるとは考えられるが、ネットの普及が大きく貢献していることは明らかで、ネットなくしてこの状況は生じ得なかったと言っても過言ではなかろう。マスコミュニケーションが主役の時代には、この間亡くなった兼高かおる女史が世界各地に赴き、その旅先を紹介してお茶の間に届け、話題になり、彼女のキャラクターとともに人気を博した。まさにマスコミュニケーション全盛時代の象徴的テレビ番組の一コマであるが、ネットの双方向性の伝達方式による昨今の状況は兼高女史が数え切れなく大衆の中にいるという風になっているのである。

  こうした状況は、新聞、テレビのニュースにも反映され、言ってみれば、大衆の中に記者や報道カメラマンが紛れ込んでいるのと同じで、あの掌サイズのスマートフォンさえ携帯していればその場の情報をいち早く捉え送ることが出来る。それも知らず知らずのうちにそうなっているという状況にある。新聞はラジオやテレビの出現によって速報性を奪われて久しいが、インターネットの普及により、速報性を武器にしていたラジオやテレビでさえスマートフォンの威力には及ばない、ネットの時代になっているというのが最近の傾向としてうかがえる。

  これは当事者(actor)イコール観察者(observer)イコール媒体(media)という図式が成り立っていることを示すもので、ネットの最も特徴的なところと言ってよい。マスコミュニケーションの立場において、この実情は無視出来ず、マスメディアはこの状況を凌ぐために一種の権威をもって対抗している面が記事内容や番組制作に表面化しているのが見て取れる。言わば、速報性は捨て、その出来事の内実を掘り下げて伝える専門家を交えた解説報道や調査報道、情報番組が多くなっていることである。何かやるせないような感じであるが、今般はこういう状況に傾斜している。

  しかし、ネットに喜ばしいことばかりはなく、その状況は、科学の進展にも言えるごとく、功罪が認められるところで、すべてがOKとはいかない点も考えなくてはならないところにある。第一にあげられるのは、マスコミュニケーションにおけるマスメディアが自らに課した信頼性を確保するための良心の行使が、個々人が発信者のインターネットによるネット社会では難しく、フェイクニュースなども多くなる欠点があることである。

  次に、インターネットの情報は短く、深い考察の出来る状況にない点の見られるところもあげられる。短くてなおインパクトのある言葉や画像にみんながとびつき、意識し、執着する。その執着の結実数であるフォロワー数がネットを支えるのであるが、短いものは概ね知性には訴え難く、情緒に流されるということになり、それは受け手の喜怒哀楽に繋がり、社会的パニックを引き起こすことになるところがある。最近の若者に読書離れが見られ、本が売れないというのも、ネット時代を象徴しているように思われる。

  また、インターネットの双方向性のやり取りにおいては容易に友達や仲間を作り上げる作用がその短い言葉や画像によって可能になることから、直接対面して接触することなく友達や仲間をつくる気楽さに陥り、トラブルに巻き込まれたりすることが生じる。これは個人、組織を問わず起きる傾向にあり、最近、アメリカを中心に、白人ファーストの自国中心主義の偏りが見られるようになっているのもネットの双方向性が影響していると見て取れる。グローバル化を進める一方でこうした現象も起きている。テロ組織のISが世界から兵士を募ったのもインターネットであり、そこが問われたことも功罪の罪にあたることが言える。

 また、他人を誹謗中傷する所謂ヘイトスピーチなどにも利用されるようになった。デモの呼びかけがネットで行われるという社会の事態が出現しているのも事実で、これらを考えるに、それはマスコミュニケーションのメディアによる影響力がネットによって弱体化している一面としてあるようにも思われる。

  一方、個人主義の徹底がネット社会に浸透する中で、個人主義の一面である孤独の捉え方にも考察が必要になって来たことが指摘出来る。双方向性の伝達方式であるネットの両極面を考えるに必然のことであることは、マスコミュニケーションの大衆社会が押し進めて来た時代において核家族が進行し、その結果として少子高齢化の状況に陥ってしまったことに重なる点が思われて来たりする。

  そして、また、一つには、インターネットによるコマ切れの情報が有するインパクトによって一躍話題になり、持て囃される御仁が現れたりする反面、多量に及ぶ次々に押し寄せる情報によってその御仁は速やかにかき消され、ピコ太郎がよい例で、あっという間に忘れ去られ過去のものになるという刹那主義が社会に投影され、そのインパクトをわが物にするねらいなどで、軽薄な情報を送り出すという族も現われるという具合になったりしていることが言える。これはネットの弊害であるが、匿名性の可能による功罪なども見え隠れしているのがネット社会の現状として捉えられる。

  以上、これらを総合的に考え、双方向性という観点からして言えば、マスコミュニケーションの時代からは明らかに革新しているわけで、マスメディアにすれば脅威にほかならないと言える。若い世代に新聞離れが言われて久しいが、半世紀後には一層の変貌を来たし、新聞の戸別配達制なども危うくなるのではないかと想像されたりする。テレビやラジオにしても言えることであろう。そういう一面を考えさせながら時代は移り、時代は変貌しつつあるということが言える。 写真は『大衆と大衆伝達の原理』(左)と『大衆文化』(右)。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2019年01月11日 | 植物

<2563> 大和の花 (701) トガサワラ (栂椹)                                 マツ科 トガサワラ属

         

 トガサワラ属は世界に6種が知られ、日本にはトガサワラ1種のみ見られ、本州の紀伊半島と四国の高知県に分布を限る日本の固有種として知られる常緑高木の針葉樹で、学名はPseudotsuga japonica。「生きている化石」と呼ばれ、昔は広く分布していたと見られる。環境省は貴重な樹種としてレッドリストの絶滅危惧Ⅱ類にあげ、川上村の三之公川右岸の群落は「三之公川トガサワラ原始林」として国の天然記念物に指定されている。奈良県でも希少種にあげられ、保護の対象になっている。

  高さは25メートル、幹の太さは直径60センチほどになる。樹皮は褐色または茶褐色で、粗い割れ目が出来、剥がれる。葉は長さが2センチから2.5センチの線形で、左右に開いて枝につく。葉の表面は緑色で艶があり、裏面には紛白色の気孔の帯が2本見える。ツガ(栂)に似て、材がサワラ(椹)に似ることによりこの名があるという。

 雌雄同株で、花期は4月ごろ。雄花は長さが7ミリから9ミリの楕円形で、前年枝の先に集まりつく。雌花も前年枝の先につき、はじめは上を向くが、次第に下向きになり、成熟期には斜め下向きになる。球果は秋に熟し、卵形でツガよりも大きい。 写真はトガサワラ(川上村の三之公川右岸の群生地)。成木群(左)と雌花をつけた枝(右)。 

      哀愁は生きてゐる身に生じ来る過ぎゆく時に添ふものならむ

 

<2564> 大和の花 (702) ツガ (栂)                                                マツ科 ツガ属

                                     

 ツガ属は世界に10種あると言われ、日本にはツガ(栂)とコメツツガ(米栂)の2種が自生し、大和(奈良県)では両種とも見ることが出来る。では、ツガから見てみよう。ツガは低山帯のやせ尾根、急斜地、岩崖地などに生えることが多く、標高の高い深山、山岳になるとツガに代わってコメツガが分布する。

 高さは大きいもので30メートル、幹の直径が1メートルにもなる常緑高木の針葉樹で、樹冠は広円錐形になり、モミ類に比べるとまとまりがない。樹皮は赤褐色から灰褐色で、古木になると亀甲状に剥がれる。葉は長さが1センチから2センチの扁平な線形で、先がわずかに凹み、裂片はモミのようには尖らず、丸みがある。表面は緑色で、やや光沢がある。裏面は粉白色の2本の気孔帯があり、白っぽく見える。葉は同じ枝で長短が見られ、ごく短い葉柄が曲がってつく。この点もモミ類と異なる。

 雌雄同株で、花期は4月から6月ごろ。雄花は枝先につき、卵形で、黄色く、柄を有する。雌花も枝先に1個ずつつき、卵形で紫色を帯びる。球果は長さが2センチから3センチのほぼ卵形で、淡黄褐色になり、熟すと果柄が極端に曲がり、下向きになる。

 本州の福島県以西、四国、九州(屋久島)に分布し、国外では韓国の鬱陵島に見られるという。大和(奈良県)では北西部を除き、暖温帯域から冷温帯域の下部で見られるとの報告がある。コメツガによく似るが、分布域が異なることと球果がコメツガよりも大きく、果柄が極端に曲がり、あまり曲がらないコメツガとの判別点になる。

  ツガはマツやモミと同じく古来より知られ、トガ(栂)の別名を持つが、古名はツガノキ(樛)、トガノキ(樛)と呼ばれ、『万葉集』の5首に見える万葉植物である。ツガはトガの転で、トガは曲がっていることを言い、モミなどの他種に比べて枝などが曲がっているからという説が見られる。栂は国字で和製漢字である。学名はシーボルトによってつけられ、Tsuga sieboldiiと、ツガの名が見える。なお、なお、ツガ(栂)は皇嗣秋篠宮さまのお印(御印章)で知られる。材は紅色を帯びた淡褐色で、成長が遅く、年輪による木目が細かいため建築、器具材にされる。だが、利用されるのはアメリカツガの外材が多い。 写真は球果をつけたツガ(天川村の御手洗渓谷)。   生きるとは過去を内在して今を未来に向かひゆくにあるなり

<2565> 大和の花 (703) コメツガ (米栂)                                               マツ科 ツガ属

                   

 主に寒温帯域に生える常緑高木の針葉樹で、高さ20メートル、幹の太さ60センチほどになる。枝を水平に伸ばし、樹冠が広円錐形になるが、尾根筋の風衝地では風雪の影響を受け、低木化しているものも見られる。樹皮は灰色で、古木では鱗片状に剥がれる。葉は長さが1センチから2センチの扁平な線形で、先端は少し凹み、基部には短い柄がある。葉の表面は緑色でやや光沢があり、裏面は白い気孔帯が2本ある。

 雌雄同株で、花期は6月ごろ。雄花も雌花も前年枝の先に単生し、短い柄を有する。球果は1.5センチから2.5センチの楕円形乃至は卵形で、開花年の秋に成熟する。球果の柄は多少曲がるが、ツガほど極端には曲がらない。コメツガ(米栂)の名は小さい葉を米粒に見立てたことによる。

 本州の中部地方以北と紀伊半島、四国、九州に分布する日本の固有種で、大和(奈良県)では大峰、台高山地の寒温帯林でトウヒ、ウラジロモミ、オオイタヤメイゲツなどと混生しているが、衰退が著しく、奈良県では絶滅危惧種にあげられている。 写真はコメツガ。球果のアップ(左・大台ヶ原)。果期の樹冠(右・山上ヶ岳)。     悲喜苦楽喜怒哀楽の身のほどは未熟未完のゆゑと言ふべし

<2566> 大和の花 (704) カラマツ (唐松)                                             マツ科 カラマツ属

              

 日当たりのよい山地に生える落葉高木の針葉樹で、山崩れの跡などにいち早く生え出す陽樹として知られ、宮城県の蔵王から石川県の白山まで分布する日本の固有種で、大和(奈良県)に自生地はないが、大台ヶ原ドライブウエイ傍の標高1400メートル付近と十津川村の蛇崩山(だぐえやま・1172メートル)の標高1100メートルの稜線付近に植林されているのが見られる。

 いつの時代に植えられたか、成木に育ち、落葉樹だけに四季の姿に変化が見られ、新緑や黄葉が美しく、存在感を示している。樹皮は褐色で、マツ科の仲間らしく剥がれる。葉は長さが2センチから3センチの線形で、軟らかい。なお、カラマツ(唐松)の名はこの葉の姿が唐絵のマツに似ることによるという。

  雌雄同株で、花期は5月ごろ。束生する葉の開出と同時に花を咲かせる。雄花も雌花も短枝につき、球果は広楕円形で、種鱗の先が反る特徴がある。 写真はカラマツ。左から開出する束生する葉とともに雄花をつけた枝々、雄花のアップ、未熟な球果(いずれも大台ヶ原ドライブウエイの傍)。   あまたなる生の存在かくはあり折り合ひつけてみな生きてゐる


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2019年01月10日 | 植物

<2562> 大和の花 (700) トウヒ (唐檜)                                               マツ科 トウヒ属

          

 エゾマツ(蝦夷松)の変種で、主に亜高山帯においてシラビソ、コメツガ、ウラジロモミなどと混生する常緑高木の針葉樹で、高さは25メートルほど、幹の太さは直径1メートルに達するものもあると言われ、樹冠は円錐形になる。樹皮は暗赤褐色で、新枝は褐色から次第に赤味を帯びて来る。葉は長さが7ミリから1.5センチの線形で、表面に白い気孔の帯が2本あるが、ウラジロモミやシラビソのように先端が凹むことはない。

 雌雄同株で、花期は5月から6月。雄花も雌花も前年枝の先端につく。雄花は黄褐色の円柱形で、雌花よりも小さい。雌花は鮮やかな紅紫色で、種鱗が外に現れ、模様になってよく目につく。花時には上向きにつくが、球果になると下に向く特徴がある。球果も円柱形で、長さは3センチから6センチ。エゾマツより小さい。また、球果は長く枝に残り、雌雄の花と球果が同時に見られることがある。

 福島県の吾妻山、中部山岳、紀伊山地の高所に分布する日本の固有種で、大和(奈良県)では寒温帯域に当たる台高、大峰山地の標高1600メートル以上に群落が見られ、シラビソやウラジロモミと混生し、台高山地の大台ヶ原や大峰山地の弥山、釈迦ヶ岳などでは純林に近い群集も見られる。近年、台風やシカの食害によって被害が拡大し、奈良県のレッドデータブックは絶滅危惧種にあげている。なお、大峰山地のものは南限として注目種にもあげられている。  写真はトウヒ。左から雌雄の花と球果が同時に見られる枝、雌花、雄花、大量の球果(大台ヶ原ほか)。    

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 ところで、紀伊山地におけるトウヒ(唐檜)の生育状況を見ると、台風やシカによる被害が報告され、シラビソ(白檜曽)ととともに奈良県では絶滅危惧種にあげられ、大切にしたい植物として保護の啓蒙や活動が展開され、その努力の成果か、最近は以前のような被害状況を脱している感がうかがえる。しかし、問題は完全に解決に及んでいるわけではなく、なお、問題点があることが我が観察眼からは指摘出来る。

 大台ヶ原では1959年の伊勢湾台風によって日出ヶ岳から正木ヶ原に至る辺り一帯の斜面に広がるトウヒ林が壊滅的被害を受けて立ち枯れ、その後、徐々に風化し、今はほとんどその姿がなくなり、ミヤコザサの笹原になっているのがうかがえる。このときの被害は、暴風だけでなく、海水の塩分を含んだ風雨、つまり、台風が巻き上げた海水による塩害も考えられるということ。この考えは立ち枯れている被害状況からの推察による。

 台風は毎年やって来るが、この伊勢湾台風は巨大で、湾岸一帯の高潮被害を引き起こした。高潮が猛烈であったことは、南東乃至は南の風が強烈だったことを示すもので、その暴風は海水を巻き上げ、塩分を含んだ状態で大台ヶ原の南東斜面のトウヒ林を襲った。倒木のみならず、立ち枯れを考えるとき、この推論に及ぶ。一時、酸性雨が問題視され、話題になったが、最近言われなくなったのは地球環境がましになったからか。

  とにかく、大台ヶ原のトウヒはそれ以後、シカによる食害なども深刻になり、ピンチが続いて来たわけである。とにかく、伊勢湾台風の後、大台ヶ原の南東斜面のトウヒ林は壊滅的状況に陥り、その姿をなくしてしまった。言わば、このトウヒ林にとって伊勢湾台風は最悪のコースを辿った大型の台風だったということになる。

 その後、シカの頭数が増え、シカの食害による被害が深刻化し、幹の樹皮が剥がされた木々が目立つようになって来た。シカには材質が軟らかいので食べやすく、脂を含んでいるトウヒやシラビソの樹皮は美味しいのか、食害の被害が集中するようになり、対策が求められ、その対策として、幹に金網を巻きつけたり、シカ避けの防護柵やネットを張りめぐらせる対策が施され、シカの駆除も考えられて来た。

  結果、最近、その成果が見られるようになり、シカに樹皮を剥がされたトウヒも見なくなった。しかし、問題が完全に解決したわけではなく、トウヒ林やシラビソ林にはなお指摘される危機が潜んでいることが観察者には見て取れるところがある。それは別の要因も絡んで衰退への状況が見て取れるからである。

  大峰山脈の南の主峰釈迦ヶ岳(1800メートル)の山頂付近一帯にもトウヒの群落が見られるが、その群落の最下部に当たる標高1600メートル付近で立ち枯れが進んでいることである。これも推論に過ぎないが、この現象は温暖化の影響によると考えられるところがある。温暖化とする理由は釈迦ヶ岳だけの現象ではなく、大峰山脈の主峰で、近畿の最高峰として知られる八経ヶ岳(1915メートル)の山頂付近にトウヒと混生して群生するシラビソに見られる現象に重なる。

  『奈良県樹木分布誌』(2012年・森本範正著)は八経ヶ岳のシラビソについて「大峰山地の弥山、八剣山(八経ヶ岳)、明星ヶ岳、頂仙岳の、標高およそ1700メートル以上にトウヒと混生し、上部ではシラビソが優先する。最近台風による倒木・枯死が多く、さらにシカによる食害もひどくて衰退が著しい。シカはシラビソの幼樹を選択的に食べるので、シラビソ林は将来トウヒ林に移行する可能性がある」と指摘している。

 この指摘には温暖化の影響を加える必要があるのではないか。というのは、トウヒとシラビソの植生は垂直分布でトウヒがシラビソの下部に当たり、上部のシラビソと下部のトウヒが混生している分布状況にある。トウヒがシラビソの純林まで及ぶにはシカの要因もさることながら温暖化の要因が加わる必要があるからである。

  この考えを釈迦ヶ岳のトウヒ林下部の立ち枯れが進んでいる状況に当てはめると、温暖化が微妙に影響しているということが言えそうである。つまり、シカの食害がなくても、温暖化の下ではシラビソもトウヒも山の上部へとその群落を移して行くことになり、八経ヶ岳のシラビソにはそれより上はないわけであるから、温暖化がこれ以上進むと、優先樹のシラビソはトウヒに取って代わられ、消滅すると言えるわけである。言わば、生にとって環境は第一であり、これは植生にも言えるということなのである。

 写真は左からシカの食害に遭ったトウヒ(大台ヶ原で、2003年)、立ち枯れが目立つ大台ヶ原の南東斜面(1999年)、立ち枯れが風化によりほとんどなくなった大台ヶ原の南東斜面(2015年)、釈迦ヶ岳西面の標高1600メートル付近のトウヒ林の立ち枯れ(2015年・古田の森付近の登山道より)。       人はひと人を生きゐるものにありみなそれぞれに個性の発露