<2561> 余聞、余話 「準備が整った梅園に寄せて」
齢とは肉体のみにあらずあり精神まさに心にも及ぶ
よく歩きに行く広陵町の奈良県営馬見丘陵公園の梅園が草刈りなどの整備を終え、開花を待つばかりになっている。開花にはまだ間があり、三寒四温の寒の峠を一越え二越えしなければならないと思うが、暖冬の影響か、白梅も紅梅も早咲きは既に蕾をいっぱいつけている。準備が整ったこの梅園を見ていてふと思われることがあった。
この二十数年山野に赴き、主に野生の花を撮り続け、花への一途を貫いて来た。何処に出掛けるにもほとんど一人で、ときには孤独を抱いて歩いたこともあるが、そんなとき、「自分の歩いた後に自分の道が出来る」と自らを励まし、ひたすら歩いた。確かに歩いた後に自分の道は出来る。これは誰にも言える人生に重ね得る真理だと思う。
だが、最近、この認識は不十分で、自分には言えないのではないかと思うようになった。この世にある自分の存在意義に照らして思えば、毀誉褒貶は免れ難く、「自分の歩いた後に自分の道が出来る」という自負はあるものながら、そういうことじゃあないのではないかと、歳を重ねるうちに気づいたというか、考えが変わって来たと自分を分析出来る。
「自分の歩いた後に自分の道が出来る」というのは独りよがりで、それは人がつくり、辿って歩いて出来た道を自分も歩かせてもらっているということではないか。そのつくった人は誰か、通った人は誰か知らず、この道を歩いた先に憧れの花が待っていてくれるということではないか。人生も同じことで、温故知新の上に自分の生は成り立っている。「自分の歩いた後に自分の道が出来る」などは自分を励ますにはよかろうけれども、人様に向けて言うはおこがましいという気持ちが最近勝って来た。
よく歩きに行く馬見丘陵公園は私の気質にぴったり来る好きな公園の一つであるが、整備をして公園の環境を整えている人々の尽力がものを言っている。もちろん、私のような公園をよく利用する者がいて公園は成り立っている。これは物を作る人とその物を利用する人の、例えば、履物のようなものである。つまり、私が歩く道と梅林は同じ意味を持っている。最近、このように思うようになったという次第。まことにありがたいことである。 写真は下草が刈られ、綺麗に整備された馬見丘陵公園の梅園。