<2557> 余聞、余話 「鳥二景」
日の光ありて恵まれ生はある逆光なれど順光なれど
今年は天気に恵まれた正月で、元日早々カメラを持って歩くことになり、目に触れて来るものを撮った。その中の印象に残る鳥の写真二枚をここに紹介したいと思う。一枚目の写真は初日の出を撮影しての帰りに目撃したもの。ツグミが一羽電線に止まって初日に染められていた。後方の中天に三日月が見られたので、三日月が入る角度でシャッターを切った。二枚目の写真はカワウが一羽池の中の棒杙にいて水面に影を落としていた。ちょうど手前をカモが3羽泳いでいたので、このカモたちも入れて撮った。これは三日のことである。
この二枚の写真が、正月の気分も手伝って何か新鮮に見えたのであった。この世というのは、主役がいて、脇役がいて、これらを引き立てる景物があって、風景を成り立たせている。そして、その景物に彩られながら主役や脇役が生の展開を見せ、ドラマなども生まれる。この世の生の意識界はこのように出来ている。それは通常の営みのみならず、悲劇とか喜劇とかをも含んで展開されている。もしかして、この二枚の写真はその悲劇や喜劇の一端にあって穏やかな一時の風景として捉えられているのかも知れないと想像を膨らませたりする。
この世というのは日の光に満ちた彩色の世界であり、写真はその自然の光によって顕現しているこの彩色の世界を写すのにメカの能力を発揮する。端的に言えば、写真は光を捉える作業を得意にしている。自然の光は概ね太陽の日の光であり、日の光は時によって微妙に異なることからして、時を表すことに繋がる。言ってみれば、自然を被写体にする写真では時の表情を写すということにもなる。
ここにあげた二枚の写真に脈絡はないが、ここに私の目が関わり、カメラのレンズの目が働き、思いの世界に結ばれて来ると脈絡は生じ、ドラマの一景になったりもする。という次第で、写真は全てをひっくるめてこの世の一端を写すと考えてよいように思われる。写真の目に誤りが生じないではないが、メカは忠実で、被写体を写し取る。
写真は電線のツグミ(右)と棒杙のカワウ(左)。主役はもしかすると道化かも知れない。道化とは思いたくないが。それにしても、こうした端々の風景は大宇宙の小事に違いない。そして、こうした小事の集まりが大宇宙を形成していると見ることも出来る。ということで言えば、ツグミの姿もカワウの姿もそれを見ている私自身もちっぽけながら存在し、存在する理由並びに価値が、そこにはあるのだろうと思えて来たりする。その理由や価値というのは生の意義と言い換えてもよかろう。