大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年07月05日 | 写詩・写歌・写俳

<2379> 余聞、余話 「春過ぎて」

       想像は斯く働けり白栲の衣の袖にふさはしき風

   春過ぎて夏来にけらししろたへの衣乾すてふあまのかぐ山                          持統天皇 (『小倉百人一首』 2番)

 この歌は藤原定家が選した『小倉百人一首』の二番目に見え、今でもよく知られる人口に膾炙した名高い歌である。出典は『新古今和歌集』で、夏歌のはじめに掲げられているが、元は『万葉集』巻一の28番に見える持統天皇の御製歌(おほみうた)として見える歌である。『万葉集』は漢字を仮名にあてた万葉仮名を用いて表記され、原文では「春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山」とある。この原文から『万葉集』においては次のように読まれ、あるは万葉調として理解されて来たところがうかがえる。

    春過ぎて夏来たるらし白妙の衣乾したり天の香具山                             持統天皇 (『万葉集』巻一 28番)

 『新古今和歌集』の選に当たってこの持統天皇の歌を夏歌のはじめに選んだのは藤原家隆、藤原雅経、そして家定であったから、おそらくこの歌における独創的な訓訳は定家の筆になるものと思われる。ところが、この訓訳が『万葉集』の読みと違っているところからいろいろと思いが巡らされる歌になった。その訳の語調が古今調になっているところからこの歌を見る向きもあるが、それだけではないように思われるところがある。

                        

 その読みを『万葉集』の訓訳と比べてみると、「春過ぎて夏来たるらし」(万葉)と「春過ぎて夏来にけらし」(新古今)は原文の「春過而 夏来良之」から見てほぼ差はなく、ともに「春が過ぎて夏が来たに違いない」、即ち、「どうも夏が来たようである」というほどの意に捉えることが出来る。

 だが、次の「白妙能 衣乾有」とある原文において『万葉集』の方は「白妙の衣乾したり」と読んでいるのに対し、『新古今和歌集』は「しろたへの衣乾すてふ」とある。「てふ」は「とふ」「ちふ」同様、「という」の意で、この読みを歌の情景に当てはめてみると、作者(持統天皇)は、歌を詠んだとき、白い衣が乾してある風景を実景として目にしていないことになる。で、原文を見直してみると、『万葉集』の読みの方が妥当であると思われて来る。何故、現実確定の「有(あり)」を「有った」と過去形に解釈し、伝聞のニュアンスが強い「てふ(という)」と語訳して読んだのだろうか。まして、他者の、それも天皇の御製歌に対してである。

 これには古今調というだけでなく、ほかに何か大きい理由があったに違いない。思うにそれは香具山の存在にあると想像が巡る。香具山は「天の香具山」と「天」を冠して呼ばれているように天から降りて来た神の山であり、定家の中世の時代にも色濃くその古称はあったと思われる。その神の山に白妙(白栲)の衣の乾し物がなされているという違和感が定家には耳目にしない実感も含め、強くあったからではないか。これは歌に対する理解の範疇のことであるが、神の山の存在がそこにはあったと考えられる。そこで定家には「てふ」という言葉を案出したのではなかったか。

 つまり、大和三山として古来より知られる香具山に神の山としての実績が万葉時代以前からあったこと。つまり、神聖な山である香具山に衣の乾し物をするなどということが出来るものだろうかという疑義が当然起き、定家にも影響したのではなかったか。「有」を「てふ」とは無理があるように思われるが、神の山に乾し物がしてあるというこの歌への疑義が定家にはあったと見なすことが出来る。だが、この『新古今和歌集』並びに『小倉百人一首』の読みはこれでよかったのかどうか。この歌に触れる度に考えさせられるのである。

 ここで思われて来るのが、白妙(白栲)の衣が乾してあるという風景における天(神)の香具山の描写に対する解釈である。何も考慮に入れず、原文を単なる叙景歌として読むならば、香具山に白い衣が乾してあったということで済む。だが、神を重んじていた当時の時代精神を考慮に入れてこの歌を理解しようとすると、乾し物に疑義が生じて来ることになり、伝聞的「てふ」の言葉も、無理があるとは思えるが、そうした表現もあり得るのかも知れないと思えて来たりもする。

 で、思うに、天(神)の山、香具山の山中に白妙の衣が乾してあったのではなく、麓の辺りにいっぱい乾してあったのを、持統天皇は皇居、即ち、出来上がったばかりの藤原の宮の宮殿方面からほぼ東に位置して見える香具山を含む一帯を望んでこの歌を成した。で、初夏の陽光にその山裾に輝く白い衣はすがすがしさをもって天皇の目に入って来たのではないか。

 香具山は裾の長い山で、あの辺りを歩くとよくわかるが、その長い麓の辺りに今は人家が見える。この辺りに白妙の衣がそこここに乾してあった。それを天皇は西方の藤原の宮方面から望み見たと考える。つまり、白い衣の乾し物が見られる山裾も含め、総体として香具山を捉え、この歌が出来上がったと見る。果たしてこの考えは深読みに過ぎるだろうか。

 以前、この歌に対し、持統天皇の女性天皇としての国見の歌ではないかと推論したが、天皇に至るまでの歩みとこの歌を詠んだときの心境を重ね合わせて想像するに、純然たる国見の歌ではないにしても、やっと政治も安泰に向かい、人々の暮らしもよくなって来たという実感とともに、そうした国見の心持ちが女帝たる天皇にはあったのではないかと想像されて来る。当時の歴史を検証すれば、一層、そのときの持統天皇の心境が思われて来る。

 『万葉集』におけるこの歌の前書を見ると、「藤原宮御宇天皇代」とあって、「高天原廣野姫天皇、元年丁亥十一年譲位軽太子、尊号曰太上天皇」と説明されている。高天原廣野姫天皇は持統天皇であり、軽太子は草壁皇子の子、即ち、持統天皇の孫にあたる四十二代文武天皇である。持統天皇は夫の天武天皇とともに骨肉の政権争いの壬申の乱(672年)で父方の近江朝を滅ぼし、天武天皇亡き後は、姉の子である皇位継承の第一人者であった大津皇子を退け、息子の草壁皇子を次期天皇にすることを謀った。

 だが、草壁皇子の早逝によって思い通りにことは運ばず、六九〇年に自らが天武天皇の後を引き継ぎ、第四十一代天皇として即位し、藤原宮を造営して政治の安泰を図った。その結果、治世は落ち着き、繁栄に向かった。六九七年に文武天皇に譲位して、十五歳の新天皇の後見役として初の太上天皇になった。「春過ぎて――」の歌はこうした経緯にあって詠まれた歌としてある。

 言わば、この歌は持統天皇晩年の作で、骨肉の政権争いの勝利と苦悩の後に得た藤原時代の繁栄と安泰による安らぎの心持ちが反映され、歌の表情に見える歌としてある。歌は明るく、『新古今和歌集』の夏歌の冒頭を飾るに相応しい歌の姿であるのが見て取れる。この歌を香具山に登って詠んだ舒明天皇の国見の歌に比してみると、この持統天皇の歌を女帝らしい国見の歌と見る私の見解もまんざらでない気がする。

 白妙の衣が乾してある風景は四季の巡りの中の穏やかな暮らしの一景であり、女性としての感性における国見の心持ちがこの歌を詠んだときの持統天皇にはあったと確信的に想像されて来る。なお、歌の中の「白妙の衣」を神に奉仕する者が着用する絹の衣とする見解があるようであるが、絹の衣を夏場の陽の当たるところに乾すということはあるのだろうか。 写真は藤原宮跡方面から望む香具山の夏姿。思うに長い山裾に沿って民家がある辺りに「白妙能 衣乾有」の状況があり、望めたのではなかったか。