大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年10月15日 | 写詩・写歌・写俳

<773> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (40)

        [碑文]     柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺                                正岡子規

 この句は『子規句集』(高浜虚子選)の「寒山落木」巻四に、「法隆寺の茶店に憩ひて」という詞書をともなって「柿」(秋)の題で見える誰もがよく知る有名な句で、句碑は法隆寺聖霊院前の鏡池の傍に、この詞書とともに刻まれ建てられている。

 子規は明治二十八年(一八九五年)三月に日清戦争の従軍記者として大陸に赴いたが、終戦になって五月に帰国。帰途の船中で喀血し、神戸の病院に入院の後、須磨保養院に移り、松山に帰郷、当時松山中学に在職中だった夏目漱石の下宿などで夏を過し、十月十九日に松山を発って、広島、須磨を経て、二十六日に奈良に入り、三泊して、二十九日に法隆寺を訪れ、大阪に出て翌日帰京したと言われる。この句はこのときに発想して詠まれたものである。

  結核性の脊椎カリエスであった子規の病状は相当に進んでいたとみられ、このときの旅では 「行く秋の腰骨いたむ旅寝かな」 という句を詠むほど体調の厳しい状況だった。だが、句作への執着は子規を奈良に立ち寄らせ、斑鳩の里へも足を運ばせた。その情熱と努力の結果が、この名句を生ませたと言ってよいように思われる。

  この句は、河東碧梧桐から「柿食ふて居れば鐘鳴る法隆寺」とは何故言えなかったかと評されるなど、いろいろと取り沙汰された挙句、法隆寺で詠んだものではなく、東大寺近くの宿で詠んだに相違ないと目されたり、夏目漱石が鎌倉で詠んだ「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」の真似をした句であると言われたりするという穏やかでない経緯をもっている。

  碧梧桐の評に対しては、死病の床にあったときの日記『病牀六尺』で、「これは尤の説である。併しかうなると稍々句法が弱くなるかと思ふ」と反論している。子規にはこう表現しなければこの句の趣が出し得ないと思えた。その趣というのは素朴な果物である柿と法隆寺の鐘の音によって表現される斑鳩の里に代表される大和路の情景のことで、子規にはこの句の中にその趣を反映させたかったということではなかったか。

 後のニ点の疑義については、子規の死後に取り沙汰されたもので、子規には弁解のしようがないので、僭越ながらここで少しく、子規に代わってこの点を弁明してみたいと思う。第一点の、法隆寺ではなく東大寺ではないかという点は、東大寺の近くの宿で子規が大皿に山と盛られた柿を下女に剥いてもらって食ったとき、鐘の音が一つ聞こえた。で、どこの鐘かと下女に訊ねたら東大寺の鐘だと答えが返って来た。このとき「柿食へば鐘が鳴るなり東大寺」と詠んだもので、これを後で法隆寺に変えたのではないかという。

  思うに、東大寺近くの宿で、確かにそのような経緯があり、この句の想を得たのであろう。だが、そこで句は決定したのではなく、その後、法隆寺に赴き、寺の傍の茶店に至ってその想は決定し、結句を法隆寺としてこの名句を得た。これは鄙びた大和の趣に心を傾け、推敲した結果の現れで、子規が目指した思いに適う句に納まったということになる。つまり、どちらかと言えば、町中の印象にある東大寺よりも、鄙びた斑鳩の里の法隆寺の方が、大和という土地柄に思いを寄せる子規の思いに適ったということである。つまり、法隆寺に赴いたことによってそれを決定的に感じ得たのである。

                           

  法隆寺では、ほかに 「行く秋をしぐれかけたり法隆寺」「稲の雨斑鳩寺にまうでけり」 という句を得ているように子規が斑鳩の里に赴いた日は雨だったため、俳句をドキュメントとして捉える向きには「柿食へば」の句は情景として採れないところがあるのだろう。しかし、詩人というのは、雨の日に晴れの日を想起して詠むことは許されるし、その方が詠み手の心に沿うものであれば、詠み手本人にはその方が真実だと言える。

  ここで写生論が立ちはだかって来ることになるが、写生というのは、「実相観入」と言われるように、観察の基本を言うもので、詠み手の心の域まで限定するものではない。多くの論者はそこのところを勘違いして写生を論ずる。子規派のように写生を旨とする俳句においては一種句作をドキュメントとして捉えるゆえに、このような重箱の隅を突くような説も生じて来るわけである。

  仮に同じ句の中で東大寺を法隆寺に変えたものとしても、その選定こそが俳人の力量と言え、詩の要諦を示すもので、詩精神の現れと見てよかろうと思う。言うならば、奈良の宿で想を得ていたものを法隆寺の茶店において決定づけ、句を完成させた。これでこの句の鑑賞については落着することになる。子規が嘘つきのような言い方はよくない。

  第二点の、漱石の建長寺の句については、短歌でいうところの本歌取りで、ここに一つの例歌があるので、この例をうかがえば、一つの解決が見出せると思う。これは斎藤茂吉の『赤光』の中の絶唱「死にたまふ母」一連中の一首、「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」で、この歌が三井甲之の作 「道おほふ細竹(しぬ)の葉そよぎ風起り遠田の蛙天(あめ)に聞ゆも」 を本歌にした、つまり、真似て作ったという説が殊更のように言われたことがあった。

  これに対し、歌人の塚本邦雄は「このような本歌こそ取られたことを光栄とすべきだし、蛙の声の天に谺する様などあへて倣はねば歌へぬものでもあるまい。母の死の近きを天に告げてゐるやうな、切切たる蛙の聲を詠んだか詠まなかったかが問題なのだ」と言っている。この邦雄の言葉を借りて、この句の評に当てはめて言えば、大和路の秋の情景を古寺の鐘の音と素朴な柿の実をもって詠んだか詠まなかったかということになる。短詩である俳句や短歌では類似句や類似歌は夥しくある。しかし、似ているようで非なるのがまた俳句であり、短歌であることも言えるのである。

  なお、法隆寺の時を告げる鐘は西院伽藍の少し高台になった西円堂の傍らの鐘楼に吊るされている。現在は辰の刻から申の刻、つまり、午前八時から午後四時までの偶数時にその時の数だけ撞かれるので午の刻の正午には十二回撞かれ、このときが一番多く、未の刻(午後二時)の二回が一番少ないことになる。現在はこのように時を知らせるべく撞かれているが、昔は明け六つ(卯の刻・午前六時)や暮れ六つ(酉の刻・午後六時)の鐘もあったから、法隆寺の鐘も、もっと早くから遅くまで撞かれていたに違いない。子規が聞いた鐘の音はどの時刻であったか、定かではないが、私は茶店で聞いたものと思っている。

  句碑は大正五年(一九一二年)、俳句結社の斑鳩吟社(松瀬青々主宰)によって建てられたもので、斑鳩吟社では毎年子規の命日に当たる九月十九日ごろに法隆寺において子規忌の法要と句会を催し、子規を偲んでいる。句碑はガイドコースの好位置に建てられているので、ガイドの多くは立ち寄って説明する。大和に碑の類は数多見られるが、この句碑ほど人々の目に触れ、愛されて来た碑はないように思われる。この句の偉いところは僅か十七音で大和の秋の情景を私たちに印象づけて来たことである。

 これは、作句においていろいろと詮索されるけれど、子規の俳句に対する情熱と詩精神の反映が大きく関わっていると見るべきであろう。句碑の前でガイドから説明を受ける子供たちを見ていると、子規の俳句に対する情熱が法隆寺へ経廻る旅を導き、その結果としてこの句の成果に繋がったということも伝えたい気分になる。言わば、人生は情熱である。「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」はこのことをも私たちに教えている。それは、子規が死の前に書き記した日記の『病牀六尺』や『仰臥漫録』などの随筆を読めばなおはっきりわかるはずである。写真は左から柿の木と法隆寺の五重塔。西円堂の傍らにある法隆寺の時を告げる鐘。子規の句碑を囲む小学生たち。     生のこと 死のこと 子規の 九月かな

 


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