大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年02月28日 | 写詩・写歌・写俳

<2252> 余聞、余話 「二月尽に思う」

       生きるとは何かを秘めてゆくにあり 時の扉の彼方を指して

 私たちは過去と未来の間の瞬時である現在を生きている。言わば、過去、現在、未来という時の流れの宇宙的支配の中に生を展開している。つまり、この世に生を得ているものは、みなすべて、この流れて止まることのない時の支配に統べられ、この支配から免れることは出来ず、この点における特権者は存在し得ないと言える。これを逆に言えば、時は生あるすべてのものに有無を言わせず、平等に働き影響しているということになる。この時の特質をベースに私たちこの世に生を得ているものの生は展開し、成り立っているということになる。

 つまり、私たちが生きているこの世では、過去、現在、未来の時の流れにあって、未来、現在、過去という時の流れはなく、現在、過去、未来も、現在、未来、過去も、また、過去、未来、現在という時の流れもないということで、ひたすら過去、現在、未来の流れに沿って、現在を生きているのが生ということになる。そして、現在と未来の間には透明な扉が設えられ、その扉が未来に向かって開かれ、その未来の時に向かって行けるようになっている。しかし、生きるということは、ただ、この時の支配に身を委ねていることのみではない。そこには生を得ているそれぞれの個性としての持ち前があって、その持ち前によって生の展開はなされ、生の成立は叶えられているということが言える。

                   

 今日は二月尽である。どのような個性たる持ち前によって三月という未来の時の扉は開かれるのか。それはまさにそれぞれである。池の浅瀬に立ち尽くすアオサギは瞑想する聖者のごとく彼方の一点を見据えているように見え、諦観という言葉が思い起こされる。同じ時と所を得て今一つの鳥ハクセキレイが渚に見える。濃い影を引いて歩く度に春めく水が緩やかな波紋をつくり、その歩きに応えているように感じられる。過去と未来を繋ぐこれが、現在瞬時の未来を開く扉の前に立つそれぞれの姿であり、光景である。

  アオサギの佇立も、ハクセキレイの歩みも、それらを目にしている私にしても、この非情とも思える禅譲のごとき時の移行の間に生は展開されている。その切ないような光景に触れて見入るものも、果して、時の流れに沿う切なさの持ち主なのである。もって二月尽はあり、一つ一つの生の展開はあるということになる。   二月尽果して尽きて春は来る   写真はハクセキレイ(左)とアオサギ(右)。

 


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