大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2019年09月17日 | 創作

<2810> 作歌ノート 見聞の記    風 景

      生きるとは思ひにありて風景の中に立ち居することの言ひ

 生における風景というのは何処にもあり、個々の生において連続乃至は輻輳してあるもので、誰もが接し、享受出来るように用意されているものである。それは、意識、無意識に関わらず、私たちを取り巻いて、私たち個々の精神(こころ)に及び、常に影響を及ぼして来るようになっている。

  そして、風景は、居場所を同じくする者たちにとって、共有出来るようになっている。だが、同じ風景でも個々の捉え方はそれぞれであり、微妙に違って捉えられる。だから同じ風景でも千差万別に映り、内容的には異質な風景として捉えられるということもある。仮に一景を千人が共有するとして、その一景は同じ一景ながら内実においては個々の精神(こころ)の異なりによって、それは一景ならず、千の景に変容するに及ぶ。言わば、これが風景の実情である。

                                            

  しかしながら、私たちと風景の関係は次のようにも言える。同じ風景に接している者同士にあっては、その風景に影響されることになるから、そこには同じような心情の持ち主の現れる傾向が生じる。民族論とか風土論はこの傾向を重視する。言わば、風景と精神(こころ)の密接な関りにおける一体感が人生に大きく作用し、社会に深く関係し、この世を成り立たせている。風景を環境と言い換えることも出来るかも知れない。では、風景と精神(こころ)の関りにおけ意義的歌の意識をしてまとめた幾首かをあげてみたいと思う。 写真はイメージで、耳目。

  悲喜苦楽喜怒哀楽のそのゆゑを負ひて来し身の我らならずや

  その昔(かみ)の風景にして預言者の言葉の力の時代がありき     

  自由とは己のみかはあひある世「あひみたがひ」と誰かが言へり

  「愚者求心愚者求心」と鳴く鳥が暗峠の道を案内す 

  まづはあり感じて思ふ感性のありけるところ青葉の光

  我ら個々耳目の窓に感の網掬ひて以って糧とはなせる

  千に一 仮に耳目の千あらば一景それは千の一景

     曠野とは見果てぬ夢の視野の言ひこの視野にして歩みゆくなり

  豌豆の苗に降る雪むらぎもの心にも降る雪といふべし

  悪意あり悪意によれる悪口のありこのありは人間(じんかん)にあり

  風景は我には我のつまりこの一人の我の否泰に及ぶ

  礫持て追はむとするも心なら尸(し)を鞭打つも心にあらむ

  我に我あるがごとくにつまりその生きとし生けるものにみな我

  そこにいま正義の旗を振るものら正義は何によれる正義か

  饒舌も寡黙も夢へ歩をなせば地平遙かに拓かれ行かむ

  一面に咲きたる花を喩としてのこころありけり闌の春

  散る桜見し旅そしてなほも行くなほも求むる心の景色

     ために死しために命を投げ捨つるためとは誰のための境地か

  過ぎゆけるものとしてある身の一ついづこにあれど彼岸の夢路

  聞くにつけ見るにつけまた言ふにつけ風景ありて風景の中

  及ばぬは足らざるゆゑの乏しさの己が心ほかにはあらず

  新聞を売る少年と飲み物を売る老爺との一日の旅路  

  今日もまた昨日に等しかる評価思ひの旅は此岸に暮るる

  異邦人我にも想ふ彼岸あり旅の空なる一筋の雲

  違へども彼岸を期する道のりにまた幾つかの人の声過ぐ

  源氏あり平家ありてふ昔より袖触れあへるこの世の景色

  生きゐればまた巡り来る季節あり花の季節を誰かまた述ぶ

  風景をなすものあまたあれど秋 紅葉一樹の谷のその映え

  神といふ存在かくも厳かに心の中の風景に顕つ


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