大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年08月04日 | 創作

<1065> 掌 編 「祖 母」 (2)

          美しくあらねばならぬ理の その理に見ゆる関はり

  私の扁桃腺炎は学校に通うようになってからもときおり出て、その都度高熱にうなされ、一週間ほど休まなくてはならないことがあった。これは小学三年のころであるが、夏休みのお盆前のことであった。例年この時期、隣の町で港まつりが行なわれ、夜になると打ち上げ花火があった。その花火を、船を出して見に行くという話が姉の友だちからあり、子供たちはみんな行けるということになった。

 ポンポン蒸気の小型船で、岬を回われば、小一時間ほどで行くことが出来る別湾の奥に貨物船も出入りする港があり、その港の海上から花火は打ち上げられた。当時は村からの陸路がなく、その港町には、巡航船などを利用し、海路を行くしかなかった。このため、花火を見に行きたくとも、村からは交通手段がなく、行くことが出来なかった。こういう地形にあったので、村人には港まつりの打ち上げ花火に出かける者はほとんどいなかった。

  当時はこういう事情にあったので、大人やほかの子供たちも行くというので、こういう機会は滅多にないと、姉や兄も友だちを誘って行くということになった。だが、私は扁桃腺炎がよくなり切っていないということで、許しが出なかった。自分としては大丈夫という思いでいたが、帰着が夜遅くになることもあって、「病気がぶり返したらどうするのか」と言われ、結局、私だけが残ることになった。

 泣きべそまではかかなかったが、相当悔しい思いで姉や兄を見送った。そんな私を気づかうように祖母は私の肩に手を置いて、この近くでも見えるところがあるから、お父さんに連れて行ってもらったらどうかと言葉を掛けてくれた。少し海辺の方に出ると、岬へ連なる低くなった山の上に打ち上げ花火の尺玉が開く。波止場の突堤辺りまで行けば、遠いけれども見えるという。

 父にこの話を持ちかけると、まんざらでもないような返事があり、自転車で行くことになった。あまり遅くならないようにと母から釘を刺され出かけた。波止場には二十分ほどで着いたが、既に何組かの男女や家族連れが集まっていた。みんな打ち上げられる花火が目的のようだったが、中には自分で花火を持って来てやっている人たちもいて、宵の波止場は結構にぎわっていた。

                   

 日がとっぷりと暮れると、岬の低い山の連なる辺りに港まつりの打ち上げ花火があがった。暫くして、ドーンという音もした。「始まった」と言って、私は父と一緒に突堤に座ってそれを眺めた。初めての打ち上げ花火は綺麗だった。なぜ、あんなに丸く綺麗な輪になるのだろうと思った。一瞬に消えて行くのが惜しいような気もした。姉や兄のことはすっかり忘れて、山の端に次々に上がる尺玉の打ち上げ花火を父に寄り添って見た。

 私は小さいときから母と一緒に風呂に入り、ほかの誰とも一緒に入った覚えがない。五右衛門風呂で小さいこともあって、自分一人で入れるようになってからも、一人で入り、兄と一緒に入った覚えもなく、父や祖父母とも入ったことがなかった。だから、当然のこと祖母の裸の姿を見たことがなかった。母はときどき洋服も着ていたが、祖母はいつも着物を着ていたので、着物による姿しか覚えていない。その祖母が腎臓の病気が高じ、床に就くようになって、だんだん離れから姿を見せなくなった。

  そんな夏のある日、私が離れを訪れると、寝床の上に上半身裸になって祖母が座っていた。ほぼ後ろ向きだったが、病人とも思えないほどふくよかな姿で、肌の色が透き通るように白く、私ははっとした。気配を察した祖母はこちらを向いてにっこりとほほ笑んだ。着替えをしていたのだろう。手早く寝巻を着直した。私は「冷えているので早めに食べて」と皿に載せた西瓜を枕許に置いて母の言葉を伝えた。

 西瓜は腎臓によいというので、祖母は率先して食べていた。私は離れを出てからも、初めて見た祖母の背中の白い肌が眩しく思われた。祖母が肌を見せなかったのは空襲による焼夷弾に焼かれた痕があったことによるという。私にはそのとき気づかなかったが、色白だったので手首や襟元にくっきりと日焼けしたような痕が残り、それを見られたくなかったからだと、後年兄から聞いた。

  兄が中耳炎を患い、岡山の病院で手術を受け、退院のため、母に代わって祖母が迎えに行ったのであるが、間の悪いことに、その日、空襲があって、焼夷弾の降り来る中を二人は逃げ惑い、辛うじて家に辿り着いたという。これも後年、兄から聞いた。焼夷弾に焼かれた肌は、日焼けと違って、油によって焼かれるので、年月が経っても消えないでいるという。兄にその痕跡がないのは、祖母が兄をかばったからではないかと想像されるが、新陳代謝の著しい子供の兄には焼かれたけれども年月とともに元通りになったのだろうとも思われる。祖母も兄も、逃げ惑ったときの様子については少しも話さなかった。苦い経験だったのだろうと思う。

 だが、祖母は焼夷弾の怖さについて、川まで火の海になると言っていた。日本の建造物が木造であることを米軍はよく承知していたのであろう。全土を焼き尽くすべく焼夷弾が用いられたと思われる。祖母の焼かれた肌の痕跡は戦争の烙印なのか、何も罪なことなどしていないのに。祖母にはどうしようもない敗戦の戦禍であった。その烙印のように焼かれた肌の痕を祖母は誰にも見られたくなかったのである。

 私は夏になるとこの祖母のことが思い出される。今はすべて郷愁の中のことであるが、最近、祖母の享年の歳に近づき、頭髪が仏相の螺髪のように巻く癖毛が目立つようになり、祖母にも見られたと思い、幼いときの恩愛とともに祖母との関わりがこういうところにも見られると気づいたのであった。 写真はイメージで、打ち上げ花火。 ~ 了 ~

 

 


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