<1162> 見聞の歌
見聞によりてある歌その歌も我が感と知の身の丈のうち
河野裕子は「人間を含めたすべての生物が宿命的に逃れられないものが三つある。生まれ合わせた時代から逃れられない。自分の身体の外に出ることができない。必ずいつか死ななければならない」と言っている。彼女は既に他界している現代歌人で、これは相当以前、新聞に寄せたエッセイ中の言葉であるが、記憶に残っている。
何をしようが、何を考えようが、人は人種、性別、年齢、身分、貴賤、職業、思想を問わず、みなどんなことがあっても、決して自分が生きている時代から逃れることは出来ないようになっている。つまり、この世の意識界における法則の上においては時の支配を受け、みな同じ位相にあって生きているということが言える。
見聞の産物である我が「見聞」の短歌はもちろんのこと、私の一挙手一投足はみな今という時代に連なるところであり、今という時代の束縛から決して逃れることは出来ないと言える。そして、いくら速く走っても、時より速くは走れないし、いくら居場所を変えようとしても、この世の外には出られない。もし、この二つを叶えようとするなら、それは死ぬほかないということになる。
で、「見聞」の短歌は、今という時代から逃れられない身として、納得、同調はもちろんのこと、許容も妥協も、また、批判も反発もみなすべてこの身のうちそとに意識しつつ詠んだものと言ってよい。その歌の幾首かを抄出してみたら一つの眺めになった。
廃屋の意味深かからむ旺盛に茂る葛にて埋め尽くさるる
草むらに投げ捨てられし空罐が雨に濡れゐる孤独を纏ひ
空瓶が露に濡れゐてひんやりと見ゆる自愛を思はしめつつ
屑籠に捨てられてゐる週刊誌我ら流されゆく身と知れる
捨てられし時計が違和を刻みゐるいや現代の意志に叶ふか
葛の茂る風景は昔からある。我が目を射たのは廃屋。廃屋が意味するところは荒廃、過疎化、無関心。往時の活気はどこに行ったのかと問うべくあるこの一景。この一景はときに別離に始まる人生の流転を思わせるようなところもある。空罐と空瓶、これらは捨てれば厄介なゴミとなり、集めて利用すれば資源として覚醒し、還元される。使い捨ての時代が到来して久しく、その時代である今の時代は次から次へと何でも捨ててかかる。しかし、再利用も考えの中に上って来ている。この問題は今後も課題としてあろう。
屑籠に捨てられた週刊誌は読み捨てを意味する。その週刊誌に見えるのは、現代人の流儀であるが、その週刊誌から何を得て来たか。そこには捨て去り捨て去り流されてゆく現代人そのものが透けて見えるような気がする。捨てられている卓上型の時計。文字盤の一部が欠損しているが、まだ、しっかり時を刻んでいるようである。捨てられた理由は時計としての働きによるものではなく、見映えの評価によるところだろう。そういうところが見え隠れする。で、顧みるに、現代人のやりたい放題のやり方は地球(自然)にとってよいものではなかろうと思えて来るのである。
今といふ時代(とき)をこの身は生きてゐるあるは見聞に棹さしながら
極めて微粒な、誰に理解してもらえるでもなくあるようなものでも、私にとって、この感と知に基づく「見聞」より生まれた歌を私から除き去ることは出来ない。欲求にほど遠い厳然たる貧困と、どこまでも求めて止まない欲望の貧寒たる精神の輻湊する現代の社会はなぜこのような様相の展開しか出来ないのだろうか。時代が進むに従ってより貧困と貧寒の現実は大きくなりつつあるように思われる。
なぜ私たちは天の時をともに満足のゆくように過ごすことが出来ないのか。なぜ丸い地球を丸く治められないのか。なぜ人間は対立ばかりして、ともに和合して行こうとしないのか。同じ生きとし生けるもの、享受はともにあるべきものなのに。疑問は尽きない。 写真はイメージで、廃屋。
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