<1161> 野 火
赤々と誰が放ちし野火か燃ゆ 判らぬゆゑは疑念に及ぶ
野火と言えば、大岡昇平の『野火』が思い起こされる。『野火』は生き残った使いものにならない病兵の私がフィリッピンのレイテ島で彷徨った挙句生き残った悲惨な体験に基づき精神病院の医師に勧められて手記を綴るという設定の小説で、人間が引き起こす理不尽な戦争に巻き込まれた私を通して戦地の極限の状況から生じる人間の心の姿を見つめ問う作品である。
「見渡す草原に人影はなかった。誰がこの火をつけたのだろう。これは依然として私が目前の事実から解決できない疑問であった」。これが島の戦地における主人公の私が彷徨うようになる始めに出くわして生じた意識で、ここからこの小説は始まる。戦況が厳しくなる一方の島では食うものもなく、猿を仕留めて食い繋ぐなどし、挙句の果てには同胞による殺人がなされ、その人肉を食らうという極限状況に至った。
このような状況下にもかかわらず、「比島人の観念は私にとって野火の観念と結びついている。秋の穀物の殻を焼く火か、牧草の再生を促すために草を焼く火か、あるいは私たち日本兵の存在を、遠方の味方に知らせる狼煙か、部隊を離脱してからの孤独なる私にとって、野火はその煙の下にいる比島人と因果関係にある」と、その不明な野火に一種の恐れと飢える身の望みとを重ねて思い巡らせていた。
それは、比島の女を殺し、人肉を食った同胞を殺し、そして、ゲリラに捕まるまで、銃を棄てずにいた私の極限的深層の心理であった。しかし、私は「殺しはしたけれど、喰べなかった。殺したのは、戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であるが、たしかに私の意志では喰べなかった」と述懐している。その自分の心理に手記を認める私には比島人の存在が常に意識されてあった野火が幻想として現れ立つのであった。
そして、私は手記を認めながら思った。「現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それ(戦争)が利益なのだから別として、再び彼らに欺されたいらしい人たちを私は理解できない。おそらく彼らは私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼らは思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である」と。所謂、この野火は戦況にかかわらず、象徴としてあることが思えて来る。昭和二十六年の作である。
言わば、象徴として捉えられた野火は、戦地にのみある現象ではなく、現代の世界、あるいは社会の移り変わりの中にいくらも見ることが出来る現象を象徴するものである。その野火に譬えられる光景が収斂されて、あるは、またしても国民を戦地に向かわせるような例えば、集団的自衛権の行使容認の憲法解釈などがなされようとしていることが意識されて来る。戦争というのは自然災害を相手にするのとは違って、相手の動向如何によっては撤退出来ず、相手ともども悲惨を免れない状況に至る。ここで言われる野火というのは、つまり、疑問符を想像させるが、その想像の中に悲惨な状況が隠されていることが思われるのである。 写真は大岡昇平の『野火』と野火のイメージ。
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