大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年08月05日 | 写詩・写歌・写俳

<1066> 長所と短所

   長所と短所が   生の実態にはある   その実態においては   長所は短所にもなり    短所は長所にもなる存在である   生きとし生けるもの    

   即ち  私たちはみな   生きるうえにおける基準というものを持ち   その基準に基づくところの   長所と短所によって  揺れ動く 実態である

 最近の川柳に「親に似たところはなぜか我が短所」というのがあった。この川柳に触れながら、長所と短所のことについて考えた。私はかつて私たちが営んでいる社会について「個々の長所と短所がある秩序において流動するところの総体」と定義したことがあった。いわゆる、長所とか短所というのは私たち人間そのもののことを言っているということである。十分とは言えないかも知れないが、この定義は間違っていないと思う。

 長所というのは短所の対語で、一つの基準において言われることである。言わば、長所と短所は左右、表裏と同じようなもので、両方を合わせてそのものの実態を示すことになる。つまり、生の実態は長短、左右、表裏、深浅etc.を有して存在する。冒頭の川柳は、長所のみで私たちの営みは成り立たず、また、短所のみでも成り立つことのないことを暗には言っていると知れる。生の実質は両方を相具えて成り立っている。

 これに加えて言うならば、長所も短所も基準によって成り立ち、この基準が異なれば、長所も短所も違って来るということになる。これは、左右、表裏等にも当てはめて言えることで、綱引きの綱を想像すればわかるだろう。綱の右側に立って見る場合と、左側に立って見る場合では左右が逆になる。これは基準をどこに置くかという問題に通じる。このことをもって冒頭にあげた川柳を見てみると、短所がいかなる基準で計られたものであるかということが重要になって来ることがわかる。

              

 これはぴったりしない例かも知れないが、次のようなこともある。私は野生の花を求めてよく山に赴くが、体力がなく、速く歩くことが出来ない。ためにほかの登山者と同時にスタートしても遅れてしまい、後から来る者にも追いこされてしまう。こうした経験を重ねるうち、私には歩きの遅いのが短所に思えて、親にもっと丈夫な体に生んで欲しかったなどという気持ちになることもあった。

 けれども、何回か登るうち、ふと、気づいたのであった。速く登れないということは、速く登りたい者にとっては短所と言えるが、私の場合は花を求めての山歩きで、ゆっくり歩くことは、十分な観察をしながら登ることが出来るわけで、歩きの遅いことは短所でなく、むしろ長所に属するのではないかと。で、それ以後は、速く歩けないコンプレックスを抱えながらも、速く歩けないことを実利に生かすという納得をもって山歩きをするようになった。

  つまり、私の場合、速く歩くことは、花を見落とすことに繋がるから、速く歩くことはよいことではなく、言って見れば、短所の条件になる。これは余談であるが、整備された登山道を避けて、花の多く見られる険しい道を選んでゆっくり歩き、十分な観察をするよう心がけているというのが私の山歩きであると言ってよい。

 以上の例を見てもわかるように、長所は短所にもなり、短所は長所にもなり得るわけで、これを踏まえて考えてみるに、冒頭にあげた「親に似たところはなぜか我が短所」の「短所」の箇所を長所と変えることも出来ることが思われるところとなる。もちろん、長所では諧謔に欠け、川柳としては成立しないことになるから、ここは短所でなくてはならないわけであるが、そういうことは言えると思う。

 また、この長所と短所は相性の問題に似て、それを認識する場合、心理的作用が大きく影響することが思われる。長所をよいものとして捉え、短所を悪いものとして見る心理は、相性の良し悪しを認識するときの心理に似て、相性の悪い方に意識されるのと同様、長所と短所の場合は、短所の方に強く意識が行く。この川柳で言えば、親から受け継いでいるものは短所だけでなく、短所と同じだけの長所も受け継いでいるにもかかわらず、短所にのみ意識がゆく。なぜ、そのようになるのだろうか。

  これは、短所が周りとの比較によって生じ、自分の身に損んな状況に至らせるという認識が私たちの気分の中に生じるからではないかと考えられる。つまり、これは生命を有するものの特徴で、長所よりも短所に意識が行くのは、楽観論よりも悲観論、プラス思考よりもマイナス思考、勇気よりも臆病に意識が行くのと同じ心理によるものではないかということが思われる。自信家に冒頭に紹介したような川柳は作れない。言わば、この句は川柳の立ち位置がよく示された句と言ってよかろうかと思われる。

  今日は暑さがぶり返し、我が家の居間に置いてある寒暖計は三十四℃を示した。この暑さのせいにしたくはないが、文章にまとまりがなくなった。 写真は左から三十四℃を示した寒暖計と夏に欠かせない竹製のカーテン、麦藁帽子。それに、氷水を入れたペットボトル。みなさんには、暑中厳しきとき、熱中症等には十分気をつけ、御自愛のほどを。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿