大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年11月09日 | 創作

<3222>  作歌ノート  ジャーナル思考 (四)

                 生存の可能性なしといふニュース『城の崎にて』のゐもりと私

 車を走らせながらカーラジオを聞いていたら、旅客機墜落のニュースが流れた。そのニュースは生存の可能性がないことをしきりに伝えていた。それを聞いていて、ふと志賀直哉の『城の崎にて』を思い出した。『城の崎にて』に次のような件がある。

 「自分は偶然に死ななかった。いもりは偶然に死んだ。(中略)死んだ蜂はどうなったか。その後の雨でもう土の下にはいってしまったろう。あのねずみはどうしたろう。海へ流されて、今ごろはその水ぶくれのしたからだを塵芥といっしょに海岸へでも打ちあげられている事だろう。そして死ななかった自分は今こうして歩いている」と。

                                 

 神の立場からすれば、いもりも蜂もねずみも人間もみな同じ生きとし生けるもの。旅客機に乗り合わせていたことは偶然で、起きた墜落事故も偶然に思える。しかし、乗らなくてはならなかったことや乗り合わせた機体が墜落に及んだことは運命で、偶然ではないとも言える。

 いもりはなぜ死ななければならなかったか。生きるもののそれは宿命であり、宿命は偶然ではない。神は不断の時の過ぎ行くところにおいて偶然という衣を纏わせるが、偶然を装いつつ、それは必然の袖を振っているのかも知れない。そして、『城の崎にて』はなお続ける。

 「自分は脊椎カリエスになるだけは助かった」と。しかし、その自分にもいつか死は来る。どんな形にせよ、生あるものはいつか死ぬ。死を免れることは決してない。昨日の明日の今日、その今日を重ねながら私たちは生き、いつか死を迎える。

   今日の無事明日の命運いのちとは事故のニュースの若き死者の名

   明日知れぬ身と知る若き事故死者のニュース昨日の明日の今日の身

 今日無事であったものが明日無事であるという確証はどこにもない。明日あなたが事故に遭うかも知れない。事故死の現場などに立ち会うとこのような感慨に至ることがある。 写真はスクラップブックの新聞切抜き部分(記事とは関係しない)。


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