大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年06月27日 | 写詩・写歌・写俳

<2371> 余聞、余話 「 変 遷 」

         変遷は世の常 川の流れにもたとへられしを 思ふこのごろ

  この世は時の流れの中。すべての生はこの流れの中にあり、変遷は世の常のこと。大小にかかわらず、動物にも植物にも。もちろん人の世にも言える。このことは昔から意識され、時代の変遷の度に言われ、或いは私たちの定めとして諦観されて来た。少子高齢化の今の世を概観するに、やはりそこここにその当てはまる光景が見て取れる。

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。云々」と『方丈記』(鴨長明・鎌倉時代)が述べる言葉は、まことよく時の流れの中にあるこの世の姿を語っている。云々の後には次のような言葉が続く。

 「たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或は、去年焼けて今年作れり。大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わずかに一人二人なり。夕に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける」と。

           

 何故、ここで『方丈記』の言葉などを例にあげてこの世の変遷について触れたかというと、草木の花に関心をもって山野に臨んでいる身において、ここ何年かの間に、出会って来た古木の何本かが、寿命にかかわらず、その個々の事情によってその姿を消して行ったことによる。神々しいような、また、親しまれて来たありし日の姿を、ここに披露するのもこの身の役目かという気持ちが湧くと同時に前述の思いに及んだからである。どのような事情にせよ、姿を消して行ったことは、『方丈記』の言葉の意味に重なって来る。

 伐られて失われた事情はそれぞれだろう。しかし、その運命は何にせよ、時の流れにおける変遷と捉えられる。そのそれぞれのありし日の姿を写真で振り返りながら一首、レクイエムでもないが、諦観における淋しさを心に冒頭の短歌を示した次第である。無常の光陰は残影の光景に見えなくはないが、いつしか忘れられて行くというのも真の姿なのであろう。そして、ありし日の姿は涙ぐましさを誘う。その姿が写真に残っているからは、これを埋没させることなく、披露するのが、花を追い、記録して来た身の役目とも思われてくるところ、この記事は成った次第である。

 写真は左から、今は見られないみごとな姿のシダレヤナギ(斑鳩町・竜田公園)、根本から八メートルほどを残し伐られた推定樹齢一二〇〇年の神木の大イチョウ(御所市・一言主神社)、古木で、毎年旺盛に花を咲かせていたセンダンの大木(宇陀市・榛原)、奈良で最も早く開花を告げ、観光客にも親しまれて来たシダレザクラ(奈良市・氷室神社)。

 


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