大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年08月03日 | 創作

<1064>  掌 編 「祖 母」 (1)

      祖母(おほはは)の背にて見しかな 温もりの心の中の夕茜雲

 終戦当時、つまり、私の幼年のころは大方の家が大家族で、私の家も八人家族だった。祖父母が離れで寝起きをし、父母と子供たち四人が母屋で生活していた。子供は上の二人が女、下の二人が男で、私は末っ子だった。よく熱を出す子で、あまり丈夫ではなかった。四人はほぼ三歳違いの間隔にあったが、母は上の三人の面倒をみなければならないことがあったからでもあろう。私を祖母に預けることがしばしばで、私には祖母の子守りで育ったようなところがあり、祖母との関わりが多く記憶にある。

 熱は冬ばかりでなく、夏場にもよく出た。出始めは四十℃近い高熱になることがしばしばで、それが二、三日で収束すると、今度は三十七℃前後の微熱が十日ほども続くということが何度もあった。医者はその都度、扁桃腺炎という診断を下したが、そういうのが私の幼年時代から少年時代にはずっとあり、熱が出たときは家族をひどく心配させた。このため私は姉や兄よりも祖母との関わりが深かったと自認している。

 祖母は腎臓に持病があり、丈夫ではなかったこともあって、熱を出すことの多い私によくしてくれたのかも知れないと大人になってから、ときにそう思うことがある。祖母は私が高校一年のとき、この腎臓の病が高じて尿毒症を併発し、七十歳を前に亡くなった。家の裏は瀬戸内特有の丘陵地が低い山に繋がり、葡萄畑が一面にあって、その葡萄畑を縫うように登って行ったところに、村人から「おぎおんさん」と呼ばれる祇園社の小さな祠のような社があった。こんもりと繁った照葉樹の中にあって普段は忘れられたような社であったが、祖母は私を連れてその社に何度か出向いた。

 五十センチばかりに切り揃えた篠竹に半紙の四手を垂らした幣を作り、これを携えて、この祇園社に赴き、供えたのを覚えている。これは後年になって知ったことであるが、祇園社に参るのは、祇園社が須佐男之命を祀る社で、私が丈夫でなく、直ぐ病気に罹るので、須佐男之命の崇によるものではないかという祖母の信心から発したという。

 どちらにしても、丈夫でない自分や孫のために、また、一家の安泰を願って、祖母の祇園社詣ではあったのである。祇園社の岡からは眼下に村の集落が一望出来、そこからの俯瞰する風景が幼い私の目には新鮮に映った。それが今も何となく思い出される。私が幼いころは、私がぐずぐず言い出すと、祖母が私を背負って外に出て行くというのが習いになり、ときには、荷物をうず高く積んだリヤカーを引くぼろ買いの男に遇ったりすると、子盗りに連れて行かれると言って、私を怖がらせたこともあった。そうすると、私のぐずぐずが止まることを祖母は心得ていたのである。

                     

 背負われて外に出ると、祖母のふっくらとした背中の温もりと、揺られ心地のよさから家に戻るころには眠ってしまうということが多かった。そんな祖母の背で見た夕空の茜雲は今も幻となって私の心の奥に残っている。それは稲が穂を出す前の晩夏の季節だったと私は思っている。

 そんな私に、もらい受けたいという話があったことを後年知った。子供のない家が、家を継がせるので私をくれないかという話だった。大きくなったら嫁さんを迎えて家を継がせたいという条件付きだったという。悪い話ではないと、父母は気色立ったようであるが、「それはならない」と祖母が強く反対した。反対の理由は次のようであったという。

 まず、私を他所に出さなければなほど家の中が逼迫しているわけでないこと、それに、幾らよくしてくれる家でも、両親に勝る愛情が受けられる保証はない。幼くして出される子のさびしさを思えば、出す気にはなれないだろうということ。そして、私がよく病気になる丈夫でない体質にあること、このことが一番の心配であること。で、この子(私)の幸せがこの家にあって、姉や兄とともに大きくなることをおいてないこと。また、兄に何かあった場合、この家はどうなるのかということ。それに、本人の意志なく勝手に他所さまに行かせてよい法はないと、こういう理由を並べて反対したのであった。

 祖母は末っ子の私を殊に可愛がっていたことにもよるだろう。しかし、反対の理由は理路整然としてあったので、祖父もこれに同意したため、父も母も祖母の意見を入れたのであった。父母には私を養子に出すこともやぶさかでないという考えであったようだが、この問題は他家の事情によるもので、私たちには、もらわれて行く立場のこの子(私)のことが一番で、一番いいのは私を出すことではなく、私たちで育てることだということでこの話はないことになったという。 写真はイメージで、茜雲。     ~次回に続く~

 


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