大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年08月02日 | 写詩・写歌・写俳

<1063> 曙の空

       DINOSAURの一億数千万年の昔を今の曙の空

 我が人生は八十年。九十年は難しかろう。この先、幾ら注意深く暮らしてみても体力的に自信が持てない。八十年でも九十年でも宇宙的時間からすれば五十歩百歩。虫の歩みほどにもない。その差は微々たるものである。言わば、どんなに生きても極めて短いものと知れる。死後がどのようであるかはわからないが、おそらく、生前よりも死後の方が遥かに長いのに違いないと思われる。

  恐竜の時代は二億年以上前から六千五百万年前までと言われる。人間はまだ影も形もなかった。それが今、時の流れにあって、人間の時代とも言える時代にある。多分、DINOSAURは自分を生きものの中の最高位にあるものと認識しながら当時地球上をのし歩いていたのだと思う。しかし、生きものに永遠はない。恐竜の時代は長く続いたが、突然のアクシデントに襲われ、絶滅した。それから遥かなときが過ぎ、三百万年ほど前に人類の始祖が産声を上げた。四十六億年という地球の歴史からすれば、人間というのは極めて新しい生きものである。

                                             

  曙の空というのは、この地球の誕生、即ち、四十六億年前のそのときから見られる光景で、今も変わることのない眺めだと思う。だが、刻々と止まることなく流れゆく時からすれば、概ね変わりない眺めながら一日として同じ眺めにはないことが言える。これが、つまり、時に支配されている私たちの生の世界である。言わば、私たちはこういう宇宙的真実の中に生きている。この真実の中にあるという認識が私たちには求められる。このような真実の中に生きているからは、ちまちまとしたことで悩むなどは無用に思えて来る。

    突然の悲劇は何処より来しか諸事万端に時は関わる

 だから、私たちは心して慎み深く、今という時をあらねばならないということが出来る。時というものに抗うことは如何なる生きものにも決して出来ることではない、この短い人生においては、この時に対し奢ることなく生きてゆく慎みこそがベタ―だと言ってよい。  写真は二〇一四年七月三十日、大和国中に見た曙の空である。

 

 


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