大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年10月18日 | 創作

<1140> 続々・自作五十句  (<1138> よりの続き )

           祖(おや)の智をゆらりと掬ふ湯葉の夜                  花水木青空渡る応援歌

         遅桜洛北便寄恋                                   道は草 墳墓に尽きて 繁る夏

         花桐を先がけとして峡(かひ)に入る                     帰るべし魂を得て鰔の目          

         旺盛に茂る古墳の緑かな                            時雨るるやひとり深夜の湯につかる

         蛇逃げて兜子と分かつその姿                         蛇の衣こころも濡らす午後の雨

         神経に蛇の赤舌襲ひ来る                            神経にちょろりちょろりと蛇の舌

         蛇の衣ありて我が身と兜子の身                        虚を虚とし楽しむ春や片笑ひ

         深閑と水澄み切りし寒さかな                           額の父人来て帰り蝉の声

         北国の便りとともに冬が来る                           春はまた夢殿までのうららかさ

         嬰児(みどりご)と春雨小雨の一日なり                    行く声も堂宇の秋の冴えにあり

         巡る春この身は見えぬものばかり                       月冴ゆる父の痩身三回忌

         壮年の父がゐませり麦の秋                            柿若葉寡黙の父へ母の声

         蝉鳴いて茶碗坂より清水へ                            夢殿へ春告げに行く歩速かな

         春雨や飛鳥板蓋宮の跡                              子規の句の数句に足りて九月過ぐ

         子規に二万我に一句の九月尽                        陽光の斜めに射せる冬の海

         物干しの辺りさびしき冬の午後                        初時雨 富小路の扇店

         夜汽車ゆき車窓に人の見ゆる春                       父危篤 秋の播州路を急ぐ

             青林檎一つ地に落つ意識界                           雨もよし雨傘もよし牡丹寺

         家内に灯ともれり雪こんこ                               老母(はは)と寝てつつじの山を歩く夢       

         全山の紅葉を胸に湯船かな                           菜の花や堤を駈ける子等の声

         風一過茅花輝きまた一過                             春寒や反論を胸に抱き寝る    

         鎌倉の青水無月に巫女の額                          叡山は時雨ゐるなり京五条

         秋の夜の妻の電話の訛りかな                         一本の樹が曳く影の晩夏かな  

         千金の書の一頁朝桜                                冬ざれの鉄錆色の町へ来ぬ

 『第二芸術』の論への対論で見れば、俳句の五七五は小説のように人の心理を探って表現する人事を司る詩形にはなく、また、短歌のように自己の心持ちから来る抒情を表現する形式でもない概ね自然との関わりを主眼にした詩形であることが言える。そこで、その関わりを表現するのに写実が言われるところとなり、正岡子規のような意見も登場して来た。子規は写実とその対極にある観念を空想と言って、写実を入れ空想を排斥した。で、短歌でも写実に心入れをし、直截な表現による『万葉集』を採り、観念的な『古今和歌集』を否定したのであった。

 つまり、ものを忠実に見聞きして表現することを作句の基本として推し進めて行ったのである。だが、この論の真意が聞く者に十分伝わったかどうかについては不明である点が思われる。完璧な写生は象徴たり得ると思うが、芥川龍之介が『侏儒の言葉』で言っているように「完全に自己を告白することはなんびとにもできることではない」というのと同じく、写生において物の内実まで完璧に見聞することは極めて難しく、ほとんどの観察者はありきたりの写生で妥協し、写実の実に及ばないところで作句するということになる。そういう実践の現実では、子規が理想とした写生論は安易に流れ歪められることになって、作品の評価を低くすることになる。

                                                                    

 子規の写生論は空想に走らず、素直にしっかりものを観察することがよいとするわけであるが、この子規の写生論ではもの足りず、修正をして深めたのが、アララギ派歌人の斎藤茂吉で、「実相観入」という言葉を用いて、物ごとの内実に迫るべきであるということを主張した。子規の考えもここにあったのではないかと、その実作等と写生論を比較して思われるところがある。この実相を探るには探る側に何かがなければ探り得ない。これは梅原猛の『古典の発見』の言葉にある通りで、松尾芭蕉は歴史に造詣が深かったので、当時誰も成し得なかった歴史に関わる句を残し得たということが出来る。

 子規は空想ということを嫌い、排斥してかかったが、空想を主観的観念と捉えるならば、俳句の立場から見て理解されなければならないということが、芭蕉の句作の実践を辿ればわかる。つまり、主観なくして作品の成り立たないことをして言えば、芭蕉の作句のあり方が作句者としては自然体であることが言えそうである。俳句において写実と空想については、どちらに重きを置くかであって、空想を完全に排斥してかかることは作句者の個性を否定することに繋がるわけであるからよくないと言ってよい。結論的に言えば、俳句に写生は極めて重要なことではあるが、主観たる作句者自身も自分というものを高めてかからなくてはならないことが梅原の言葉からしても言えると思う。 写真はイメージ。茅花と紅葉。 続く。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿