<3449> 作歌ノート 曲折の道程 (十一)
老子対孔子静かに争へり人たる我といふ器あり
人にはいろいろな考えがある。私たちはそのいろいろな考えを聞きながら自分の考えの中に組み込んで行くのであるが、どちらの考えを採るべきか、考え込まなければならないこともある。そんなときには、「私利に走らず、悪しきにつかず、迷はば大道を行くべし」であるが、例えば、老子と孔子を思うに、老子は「以徳報怨」と言い、孔子は「以直報怨、以徳報徳」と言った。まことどちらの考えがよいのであろう。示しをつける意味では孔子。ことなく納めていくには老子ということであろうか。
老子と孔子のこの違いは考えさせられるところがあるが、両者の考えを聞いて初めて真理探究の論は広がる。で、この違いは現代においても見られ、しばしば論争になる。死刑の有無に対する論争然り、凶悪犯の少年についての実名報道、顔写真掲載論争然りである。時代によって判断に微妙な差異が見られる。そして、いまなお論争には決着がつかず、意見はさまざまに出て来る。しかし、決着がつかずとも、論の展開は必要と思える。
ことに当たって処するに、自らの思いの中に汲まんとして汲めないことがこの世の中には多い。これが、例えば老子対孔子であるが、これに釈迦が加わり、キリストが加わり、マホメットなども加わる。「どんな悪人も死ねば仏となる身」と言えば、「右の頬を叩かれれば左の頬を」と。また「目には目を」というような考えの教えもあり、思うところはさまざまである。
で、「結論の出ないところが人間らしいところ」と言えば、「人間は定義したがる動物である」とも。どちらも言って妙ではある。そこで、宗教論争なども展開されることになるが、凡夫たる器はいよいよもって迷妄、惑う心に収まりがつかない。という次第。思うにわからない。思うに難しい。人生はまこと難題に出来ている。では、惑いついでになお二首。 写真はイメージで、葦原のアシ。
考へる葦たる我といふ一穂数多の中の一穂といふべし 一穂(ひとほ)
考へる葦たる我といふ一穂及び得ざるがゆゑに戦げる 一穂(ひとほ)
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