大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2019年09月01日 | 写詩・写歌・写俳

<2795> 余聞、余話「再び持統天皇の万葉歌に寄せて」

      言葉とは心 心とは思ひ 思ひは何かに接して生るる      生(あ)

 『万葉集』巻一の28番に持統天皇の歌が見える。原文表記では次のようにあり、『新古今和歌集』や『小倉百人一首』にも採られている人口に膾炙している名高い歌である。まずは、その原文表記の漢字ばかり十八字の歌をあげ、この歌に対する考察をしてみたいと思う。

  春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山

 これがその歌で、『万葉集』には前書に「藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇、元年丁亥十一年譲位輕太子、尊號曰太上天皇」とあり、題詞に「天皇御製歌」とある。藤原宮御宇天皇も高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)も持統天皇のことであるから、この歌は持統天皇の御製歌(おほみうた)ということになる。で、歌は次のように語訳して読まれ、今に伝えられている。

      春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山

 これに対し、『新古今和歌集』と『小倉百人一首』とは、『新古今和歌集』の選者であり『小倉百人一首』を手がけた藤原定家の訳によるものであろう。『新古今和歌集』では巻三の巻頭「夏歌」の175番に「題不知」の詞書をもって見え、『小倉百人一首』では冒頭の天智天皇の歌に続いて見える。ともに次のように訳され、読み継がれて今にある。 

   春過ぎて 夏来にけらし しろたへの 衣ほすてふ 天のかぐ山

 これは『小倉百人一首』の歌が『新古今和歌集』から引かれていることによる。比較するとよくわかるが、『万葉集』と『新古今和歌集』等で訳に違いが見え、この違いは一般にもよく知られている。なぜ、このような違いが生じたのか。例えば、短歌の韻律により、『万葉集』の訳では万葉調に、『新古今和歌集』等の訳では新古今調になったということか。

  そのようにも思えるが、その違いは歌の韻律だけでなく、意味内容も異にしていることが言える。歌の二句目と四句目に訳の違いが見て取れるが、この二箇所の違いの中で歌の意味内容を変えるほどの違いは四句目にあり、原文表記では「衣乾有」とある箇所。これを『万葉集』の訳では「衣乾したり」とし、『新古今和歌集』等では「衣ほすてふ」としている。つまり、「有」を「たり」と「てふ」に訳しているわけである。「たり」は継続の意の助動詞で、「てふ」は「とふ」と同じく、「という」の意で、伝聞の言葉と知れる。この訳の二字によって同じ歌であるにも拘わらず歌の意味内容に異なりが生じるということになる。これではよくないが、奇妙な話で、そのようになっている

 で、読み比べてみると、『万葉集』の語訳では「春が過ぎて夏が来たようである。白い栲(たへ)の衣が乾してある天の香具山よ」となり、真っすぐな叙景歌として読む者には受け取れる。これに対し、『新古今和歌集』等の訳では「春が過ぎて夏がやって来たようである。白い栲の衣を、今、乾しているという天の香具山ではあるよ」というほどの意に取れ、後者の訳によれば、詠み手である持統天皇には歌を詠んだ時点において「天之香来山」の姿を見ていないということになる。どちらにしても、この歌における二者の解釈は、「天之香来山」に白妙の衣が乾してあるということになる。

  だが、この叙景歌の訳に対し、「天之香来山」は神の山で、神聖視されていた当時において生活実感である衣が乾してあるというのはおかしいという疑義が発せられた。また、「天皇御製」の詞書がある歌の内容からして単に衣が乾してあるというのは納得し難いということも言える。という次第で、私もこの歌が詠まれた時代背景を考え、この歌に対する意味内容の捉え方に疑問が生じていた。

  これは原文の「衣乾有」を「衣乾したり」と訳し、「衣ほすてふ」と訳したことによると言ってよい気がする。思うに、この歌は、平明に見えるが、当時の時代と詠み手である持統天皇の心境に思いを馳せて読むと、解釈が限りなく難しくなる類の歌で、この認識が生じて来ることになる。で、この疑義に呼応するように、「白妙の衣」は実際の衣ではなく、雪とか雲の譬喩であると解釈する向きも現われて来た。雪の譬喩は、後世の歌に雪をにおわせた「天之香来山」の歌が見え、その歌を参考にしたか。だが、この歌の季節感や気分に雪はそぐわないと思える。

  一方、雲の譬喩は、「白妙の衣乾したり」の雲を、標高一五二メートルの「天之香来山」と背後に見られる高い遠山の位置関係において考えるとき、果たしてどのような雲が想定出来るのかが問われる気がする。そして、雲と「春過而 夏来良之」の断わりの句をどのように結びつけるのかということが思われて来たりする。

  で、「白妙の衣乾したり」とその雲の季節感がよく理解出来ず、私にはその整合性において違和感が生じる。例えば、白い雲が棚引きかかる「天之香来山」を想定するとして、それは初夏の現象とばかりは言えず、殊更にこの歌の譬喩に当てるには安易すぎる気がする。という次第で、原文を読み返し、今一度考えを巡らせてみると、何故、原文は「有」を用いたのかということが思われて来ることになる。

  思うに、ここで言う「有」は「あり」で、「たり」でも「てふ」でも意は通じるものながらニュアンスを異にすることが言える。なぜ、「有」をそのまま素直に「あり」と読まなかったのか。それは、「白妙能 衣乾有」を山における現象と解したからにほかならない。短歌的形式からすれば、「あり」より「たり」や「てふ」の方が語調から言って整う。けれども、素直に「あり」と読んだ方がこの歌の解釈をより深くする気がする。で、「あり」と読むならば、次のように言えることに気づく。

           

  この歌は藤原京の皇居辺りから眺めたものと想像されるが、「あり」と詠んだ場合、白い栲の衣は神の山である「天之香来山」に乾してあるという解釈のみでなく、持統天皇の視野の中の「天之香来山」に近い辺り一帯に見られた風景として捉えることも出来ると言える。原文が万葉仮名を用いず、敢えて「有」の字を選択しているのはこういう意において用いているからではないかと考えられる。

  つまり、この歌は五七五七七を一気に読むのではなく、四句目の七「衣乾有」で一息つき、その後の五句目、即ち、最後の七「天之香来山」に思い入れをもって、歌をこの神の山に呼びかける形で読むのがよいと思われて来る。このような意識をもってこの歌を読むと、歌の意は「春が過ぎて、夏が来たようだ。白い栲の衣がそこここに乾してある。あれを見てくださいよ。天の香具山」というほどになる。言わば、「有」を「あり」と素直に表現してこの歌を読み返してみると、以上のような解釈が可能になることが言える。

  こうした解釈において見てみると、この歌を女性天皇の望国の歌、即ち、国見の歌とも解すことが出来、当時の政治状況や国の姿とともに、持統天皇の心情をも推し量ることが出来る歌として捉えることが可能になる。それは持統天皇の歩んで来た険しい道とそれにともなう悲劇や人となりをも合わせ、この歌の鑑賞が出来るからである。

  当時の時代背景を思うに、この歌はこのように解した方が「天皇御製歌」の捉え方としてよいように思われる。言わば、この歌は明るい歌であるが、持統天皇の辿った生涯の道筋における経緯をして言えば、重い意味内容をも内蔵していると見なせる。では、持統天皇が辿った生涯とその生涯において辿りついたこの歌に込められた心情を探ってみたいと思う。

  持統天皇は天智天皇の第二皇女で、大化改新があった大化元年(六四五年)に生まれ、同母姉の第一皇女大田皇女とともに天智天皇の弟である天武天皇の妃となった。名は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)で、天武天皇が亡くなり、自身が天皇に即位するまで、この名で呼ばれた。

  妃となって間もなく、父の天智天皇が崩御し、後継であった天智天皇の皇子、即ち、鸕野讃良皇女の異母兄である大友皇子と大海人皇子(天武天皇)が政権を賭けた壬申の乱(六七二年)を起こし、叔父と甥の骨肉の争いに陥り、鸕野讃良皇女には兄と夫の板挟みになったが、吉野に走って挽回を期した夫の大海人皇子(天武天皇)と行動を共にし、この戦いに勝利した。

  その翌年の白鳳二年(六七三年)、大海人皇子は飛鳥浄御原に移り、即位して天武天皇となった。このとき、姉の大田皇女は他界していたため、鸕野讃良皇女が皇后となり、天皇を助け、唐に倣って藤原宮の造営と律令制度による国の構築の夢を実現すべく、二人で政治の改革に臨んだ。

  その後、天武十三年(六八六年)、悲願半ばにして天武天皇が崩御し、太田皇女の子である大津皇子を謀反の嫌疑によって死に追いやり、自分の子である草壁皇子を次期天皇に据えるべく動いたと言われる。だが、草壁皇子はその期待に応えられず、六八九年、大津皇子を追うように亡くなり、草壁皇子の子輕皇子が幼少であったため、自らが天皇を目指し、称制(天皇の代役・六八六年から六九〇年の間)を経て、六九〇年に即位し、第四十一代の天皇になり、持統天皇と呼ばれるようになった。

  その後、持統五年(六九四年)に飛鳥から待望の造営が成った藤原京に遷都した。そして、草壁皇子の皇子で持統天皇の孫に当たる輕皇子(後の文武天皇)に譲位するまでの十一年間、天皇の座にあり、この天皇だった間にこの歌は詠まれたと見られている。譲位後も初の太上天皇となり、文武天皇の後ろ盾として大宝律令の制定に当たり、律令制の政治基盤を固め、藤原京とともに天武天皇と描いて来た夢を果たしたのであった。そして、大宝二年(七〇二年)、五十八歳で亡くなった。

  その生涯には、兄の大友皇子を戦いで滅ぼし、姉の子である大津皇子に謀反の嫌疑をかけて死に追いやるといった悲劇をもたらしたことがある。殊に大津皇子の悲劇は『日本書紀』や『万葉集』にも残され、持統天皇には冷酷無比な非道の女帝というイメージが冠せられ、この印象が後の世にも尾を引き、今にあるという次第である。

  だが、その反面、天武天皇とともに思い描いた夢の藤原宮の造営とともに律令制による国づくりを果たしたことで、「深沈な大器量人で、その治世は繁栄し、万葉の歌も大いに興った」というような評価もなされ、天皇自身も苦悩しながら大きい目的を果たしたという自負があったと想像される。つまり、この天皇の自負が、この『万葉集』巻一の28番歌には反映されていると見なせるので、前述の私見の解釈を述べる気になったと言える。

  この「天之香来山」は大和三山の一つで、中大兄皇子(天智天皇)の「三山歌」(『万葉集』巻一の13番)でよく知られる人格化された神の山である。このことを思うと、この28番の歌は、「天之香来山」が神の山に加え、亡き夫の天武天皇の霊に向かって呼びかける気分もあったと思われるところ、また、父帝の天智天皇にも呼びかけ、皇統の繁栄の証である藤原京の豊かな風景を寿ぐ意において、神の山「天之香来山」に両帝を重ねて思い、「成し遂げた帝都藤原京を見てください。あんなに白い衣が乾してあります。豊かで幸せな国の証ではありませんか」と、訴えかけた歌と解釈出来るわけで、こうした解釈に立てば、所謂、この歌が女帝らしい国見の歌として鑑賞出来るように思えるのである。

  なお、これに加えて言うならば、この28番の歌には『万葉集』巻一の2番の舒明天皇による国見の歌があり、この歌(長歌)にも関りがあると言えそうに思えて来る。舒明天皇の国見の歌は、「天皇登香具山望国之時御製歌」と、詞書にあるように「天之香来山」に登って、この神の山とともに広い平野に立ち上る民の竈の煙と水辺に飛び交うカモメを望見し、豊かな民の暮らし向きを思ったのであるが、その広い平野に持統天皇代に藤原京が出来上がった。この歌にはこうした感慨もあろうかと思えて来たりする。つまり、28番のこの歌を以上のように解せば、大化改新以後、皇統が夢に描いた都の姿を自らの代において叶えたという持統天皇の自負の心持ちから生まれたと見なせることになる。

  その間に持統天皇には冷酷な悲劇を生み、この非道な悲劇は後世に問われ続けるところとなり、その悲劇のインパクトが強くイメージされているが、そうした当時の皇統における持統天皇の行動をも含め、その皇統の辿って成し遂げた結果における藤原京の姿が持統天皇にこの28番の歌を詠ませたとも解釈出来るのである。

 ということで、この28番の歌を考察したわけであるが、私には前述のように読み解くのがよいと思える次第である。そして、そのキー-ワードは四句目の「衣乾有」の「有」の読みにあるということが思われるのである。では、今一度28番の歌の原文を示し、この歌を顕彰しながらこの項を終えたいと思う。 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山  写真は橿原市醍醐の藤原宮跡方面から望んだ天の香具山(左)とこの歌の原文表記の歌碑の文面(右)。

 


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