大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年03月21日 | 写詩・写歌・写俳

<1293> 幻想と妄想 (3)

      人生は 齢を重ねゆける旅 時の雫を汲み入れながら

 では、早速、私の幻想、否、妄想を紹介してこの項を終わりたいと思う。この幻想、否、妄想は人生の時の旅に関わるところより発するものである。人の一生というのは誰もみな父母の情けによって命を授かり、一様にオギャーと泣いてこの世に登場し、千差万別の環境の下に育ち行き、個々それぞれが有する個性によって齢を重ね、宇宙的時間に比すれば、ほんの僅かな一生の時を費やして終わりとなる。私たちは長いようで短いこの日月をもって生涯と呼ぶ。その期間は長い者もあれば、短い者もあるが、誰もこれを免れることはない定めの上にある。これはこの世の眺めであって私たちには理解出来る。だが、これで終わらないのが人生であると私には思える。そして、ここからが私の幻想、否、妄想が働く。

  人生というのは、このように生まれて死ぬまで、踵を返して帰り来ることのない行きっ放しで終わる。ここまでは私たちにも理解出来る。しかし、私には行きっ放しということがどうしても理解出来ない。楽しい人生と苦しい人生が同じ人生の道では甚だ不公平で納得しかねる。で、人生には帰る道がなくてはならないと思う。そうでないと、納まりがつかない。この思いはすでに妄想の域にあると思うが、これにはまだ先がある。そこで、思うのであるが、人生とは表裏で成り立っているのではないかということ。言わば、今を生きている私たちは人生の表側を歩いているということが思われて来るのである。老いて死を迎え、死の世界に入るとそこは裏側になっていて、その裏側を今度は帰り行くことになる。

                            

  裏側の道は老いたる身に始まり、時が経つにつれて若返り、赤児となって一生の終わりを迎える。そして、その道はそのときどきの出来ごとにおいてもすべて逆に現れるということが想像される。表のこの世において隠されたものは裏のあの世ではすべて明らかな状態になる。表裏の世界であるから。例えば、この世で露見しなかったことはあの世では露見して明らかにされるというふうになる。こうなれば生の平等は叶えられ、納得するところとなる。つまり、生はみな表裏をし、行き帰りをもって成立すると考える。

  だから、死によって人生が終わるのではなく、終わった先は裏返しに続けられることになる。この世で姑息に生きたものはあの世ではその姑息が露見して辛いことになる。この世で辛さを味わった者ほどあの世では楽しく過せる。という次第で、この世で正直に生きて苦しい思いをした者はあの世の帰り道を楽しく行くことが出来るということになる。生はみな平等であらねばならないからこのように言えるわけである。幻想、否、妄想は以上である。苦楽があって人生の総体はある。 写真はイメージで、花の彩。果たして、あの世ではどのように見えるのだろうか。   ~終わり~

 


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