大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2019年04月18日 | 写詩・写歌・写俳

<2660> 余聞、余話 「日常」

      日常を過ごすべくある生の身のその必然に見ゆる諸事情

 生の身、即ち、生きとし生けるもの、地球生命。私たち人間のみならず、他の動物も植物も問わず、時を抱いて生存しているすべての生きものたち。言わば、小さな虫たちも地を這う雑草も、みな生の尊厳をもって生きゐるものたちである。それは自然、つまり、神の風景において展開する存在であり、生きていること自体がその自然(神)の風景におけるところの尊厳を叶え諾うものとしてある。

 そのすべての生の身には、時が関わり生きる上における日常というものがある。この日常こそが生の身には大切で、日常に意識を置いてそれぞれの生を有効たらしめることが求められる。どんな小さな虫のような生きものにも、不適なような環境下に置かれているような地を這う雑草にもこの時に関わる日常があり、且つ、この日常を懸命に生きている姿がある。例えば、私たちには同類のみならず、耳目に及ぶ風景の中にその生真面目で懸命な生の姿を捉えることが出来る。

 その姿の例をあげてみると、身の丈に合わないほど大きな花粉団子をぶら下げて花に向かっているミツバチを目撃することがある。花粉団子はミツバチにとって重そうに見えるが、その大きさは自らの働きを示すものとしてあり、それは生真面目に働く姿の象徴であると受け取ることが出来る。それはまさに働きバチの日常の姿ということになる。そして、このミツバチの日常は自然(神)の風景の中の一端としてある。

           

 また、生の存在の一つである草木にもこの日常はある。春の今の時期、外に出て歩くと、舗装された道の継ぎ目の隙間から生え出し、道にへばりつくように花を咲かせるトキワハゼなどに出会うことがある。トキワハゼには厳しい状況に見え、痛ましいような環境下に位置する姿として見えるが、強く生きているという感じにも受け取れる。このトキワハゼにはこの厳しい環境にある姿が日常のもので、その頑張りは、自然(神)の風景をより印象的に浮き彫りにしていると思える。

 ヒヨドリは傍若無人の大食漢と言ってもよい食いしん坊で、他の小鳥たちに比べ、何でも食べる感がある。この大食漢の食自体がヒヨドリという野鳥の日常を示していると言って差し支えなかろう。我が家では庭のナンテンが冬になると赤い実をたわわにつける。その赤く熟した実をヒヨドリが来て食い尽くすので、いつの年からか、実を取られないように、枝に網を掛けて防御するようになった。このヒヨドリの大食漢の日常は我が家にとっては由々しき問題になっているが、ナンテンにとっては、自然(神)の風景における実に正常な姿と言えるところがある。

  何故、ナンテンの実はあんなに赤く目立つ色になっているのか。それは鳥に食べてもらいたいからであると考えを巡らせば、その真理がわかって来る。言わば、そこには持ちつ持たれつの自然(神)の風景に具わっている精神性が思われて来る。この間は、私たちの口には渋いナワシログミの実をしきりに啄んでいるヒヨドリを目撃した。それは食に対して横柄にも思えるが、そこにもやはりナワシログミの実とヒヨドリの関係性が自然(神)の風景において成り立っている日常の光景としてあることが言える。

 タケノコの時期になると、竹薮がイノシシに荒らされるというのをよく聞くが、その無残とも思える竹藪の光景をこのほど目撃した。地上に姿を現したタケノコではなく、イノシシは地中深くに出来た皮もまだ軟らかいタケノコを掘り返して食べている。嗅覚で生えている場所がわかるのだろう。そこかしこで掘り返して食った痕跡が見て取れた。人間さまより一足早く馳走に与ったという体である。これはどう見ても許しがたいイノシシの行状ではあるが、これとても自然(神)の風景における様相として見れば、竹藪の持主には理不尽このかたない光景であっても、この横暴は日常の食に事欠くイノシシの必死な様相に重なって来るところもある。イノシシの日常に十分な食がある生活状況にある環境が保たれていれば、わざわざ土を掘り返して食べることもないはずである。

  この問題は一つにイノシシの日常の環境が保証されていない点にある。この保証されないイノシシの環境が如何にして生じているのか考えると、これは持ちつ持たれつの関係と全く逆の不幸な環境が自然(神)の風景の中につくり上げられ、それがはたしてイノシシにその責任を全部負わせてよいのかということになる。この不幸な関係性は自然(神)の風景の中では冒涜の光景の構築にも思えて来るところがある。この悲劇的トラブルはむしろ被害を言い立てる人間側に大きい一因があることを自然(神)の風景の中にあっては考えないわけには行かないという気もする。そして、毎年その日常に展開する不幸な関係のタケノコ事件の悲劇が今年もまた生じているということに思いが向かう。

 このように私たち生きとし生けるものが時の流れに身を置き必然的に有する日常は、自然(神)の風景の一端にありながら大切なものとして捉える必要があるということが出来る。ともに有意義な日常を送って行ければよく、そうするように努めることが肝心ではないかと思えたりする。 写真は左から大きな花粉団子をぶらさげながらタンポポの花に向かうミツバチ、ナワシログミの実を啄むヒヨドリ、歩道のコンクリとの継ぎ目から生え出し花を咲かせるトキワハゼ、イノシシに掘り起こされ食べ散らかされた竹薮のタケノコ。