大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2019年04月27日 | 写詩・写歌・写俳

<2669> 余聞、余話 「 日 課 」

        日常の日々にしありて母さんの日課に生(あ)れし我が家の味

 生きて行くということが日常を積み重ね、その日常の諸事情によって成り立っていることはこの間このブログで触れた。その日常を如何に充実たらしめ過ごすかということで、誰もが大なり小なり日々の暮らしの中で模索し、考えを巡らしている。

 おぎゃーとこの世に生まれて以来、私たちはこうしてこの日常の日々を過ごしている。そして、この日々をよりよくしたいと願うのであるが、それが十分叶えられるかどうかについては、不慮の出来事とか、何かの障害によって思い通りにならないことがしばしば起きる。如何なる幸運の持主も生身の身においては支障、障害はつきもので、これが生きる上の通例になっている。

  こうした日常の積み重ねをなるべく支障なくスムーズに運び得ることを誰もが望むが、そこには努力が求められる。日々の暮らしの中では、この日常にその努力の一端としての日課ということがあげられる。日課は個々それぞれで一概には語れないが、大きく三つに分けることが出来る。(1)は生そのものに組み込まれている例、その(2)は外部から課せられる例、その(3)は自らが自らに課する例。大概の御仁はこの三つの日課に従って日常の日々を送っている。もちろん、何らかの原因によって日課が果たせずその日を終えるということがまま起きる。

  この分類に従って日課をあげてみると、(1)の例では食事のことがある。私たちには一日三食が通例で、日々支障なく食事をするには食事どきに合わせて食事を用意しなくてはならない。この食事の用意を省くことは生活の習慣上出来るものではない。つまり、ここに(1)の要件による日課がうかがえる。つまり、食事の用意は誰かがやらなくてはならない。大概の家庭ではその家の主婦がこの日課の任を負っている。

  最近の生活実態においてはそうも言えないところがあるが、食事を用意する日課は誰かが負わなければ、日常の日々は立ち行かない。ときには不平を漏らしながらも、主婦はこの日課に立ち向かっている。この点において日課の意識は生活の重要な精神的要素としてあるように思える。食事のみならず、掃除、洗濯など暮らしの全般において主婦はこの日課をこなしながら日常の日々を過ごしているということになる。

  これに対し、(2)の例は、会社勤めのサラリーマンに言える日課で、会社が定めた仕事における日課があげられる。つまり、サラリーマンは仕事のノルマによる日課によって日常の日々を積み重ねている。ノルマは会社の都合によって決められることがほとんどで、能力を越えて課せられるようなこともしばしばあり、このノルマを果たすため残業によってその日課をこなすということになったりする。酷いときは、日課が果たせず、病気になっったり、ときには自殺に追いやられるといったトラブルや事件も起きる。ここで問題にされるのは、ノルマと日課の正常性であるが、なかなかそのバランスが取れないということが常ながら見受けられるのである。

  (3)の例はスポーツ選手や芸術家、或いは職人といった分野の人に当てはまる。もちろん、一般の人々にも言える。自分に課して自分の日課を決める類の日課である。スポーツ選手が一日の生活メニューによって、これをこなしながら練習中心の日常の日々を過ごすということがある。このメニューが即ち日課であって、勝負に向かう選手にはその日課の厳しさが求められる。自分の鍛錬が自分の将来にかかっている御仁にはアスリートだけにとどまらず、厳しい日課が求められ、それに立ち向かうということがある。言わば、日課が精進の基本であると言える。

  このように日課は誰にも、大なり小なりあるもので、病院に入院している患者の身でも日課があって、これは担当医によって課される日課といってよく、病室の日々における患者には点滴、注射、検査、診察などが日課として課せられるという具合である。とにかく、日課は日常の日々において大小様々、それぞれが厳しくも、厳しくなくもあるというのが常であるといってよかろう。

         

  最近、大和郡山市の奈良県立大和民俗公園に移築展示されている民俗的価値を有する県内の古民家十五棟の傷みが激しくなり、順次屋根の葺き替えなどが始められ、このほど、旧萩原家住宅(桜井市・県指定文化財)の茅葺き屋根が葺き替えられ蘇った。材料の茅と茅葺き職人の手当てに苦心したと言われるが、茅は県内だけでは賄い切れず、東北地方に求めたと言われ、職人は九十五歳の棟梁と棟梁の六十歳代の息子に依頼し、昨年九月に取り掛かり、約七ヶ月を費やして修理を終えたという。

  今の時代、古民家の修理修復は非常に難しいと話を聞くにつれ思われたが、ここでは九十五才の棟梁に驚かされた。ご当人がどのような体躯の人か出会っていないので定かには言えないが、矍鑠としてあるのだろうと想像が巡る。ここで思われるのがこの項のテーマ日課である。九十五歳であるが、半年以上、日々の日課をこなして一棟の茅葺きの大屋根を葺き替えた。もちろん、手伝い人もいたのであるが、急勾配の屋根にも上って作業をこなした。そこには九十五歳の職人の屋根に向かう仕事の日課があり、日課を果たすことによって茅葺きの大屋根は蘇った。

  今上天皇は間もなく退位されるが、退位が決まってからも、日々の日課を滞ることなくこなされている。その姿をテレビなどで拝見する度に、頭の下がる思いがした。その姿は国民によく伝わっていると思えるが、言わずもがな、次期天皇の皇太子殿下にも伝えられていることが想像出来る。誰にも大なり小なり日課が課せられているが、天皇は国民統合の象徴として自らの日課を粛々とこなされ、国民の手本となって来たことが思われることではある。 写真は修理が終わった大和民俗公園の旧萩原家住宅と我が家の献立、昨夜のカレーライス。