大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年02月13日 | 創作

<530> いろは歌考 (1)

          この世とはいろはにほへとの この世なりいろはにほへとを 渡りつつあり

 ここにいろは歌がある。「いろは歌は同じ仮名を二度使用することなく仏教の偈(仏徳をたたえる詩)を和訳した今様歌である」(島田昌彦『古文文法』)と言われ、七五調四句四十八字からなる。「ん」は「京」に置き換え、歌の最後に番外として据えられるのがならいである。作者については、空海という伝もあるが、文字上から平安時代中期以降とする説もあり、不明である。以下はそのいろは歌である。説明は『古文文法』に従った。

               いろはにほへと ちりぬるを        色は匂へど 散りぬるを          諸行無常 (しょぎょうむじょう)

            わかよたれそ  つねならむ        我が世誰ぞ 常ならむ           是生滅法  (ぜしょうめっぽう)

            うゐのおくやま けふこえて        有為の奥山 今日越えて          生滅滅已 (しょうめつめつい)

            あさきゆめみし ゑひもせす          浅き夢みじ 酔ひもせず          寂滅為楽  (じゃくめついらく)

 後でも触れたいが、いろはの最後の「ん」は納得の言いである。人生は納得の「ん」に終わる。つまり、これには人生を納得して終わる意が込められている。「ん」イコール「京」というのは、人生を「京」、つまり、都に終わるという意である。都とは仏教的に言えば、彼岸の光明に等しい。因みに、人生の旅を思わせるいろは双六の最後は「ん」の「京」で、これを上がりという。

 この双六はサイコロを振ってその数を進むが、休みや戻りの指定があるところでは掟であるその規則に従わなくてはならず、行きつ戻りつしながら艱難の旅を続け、早く上がることを競う。双六は遊びであるが、上がりの「京」は悲願であり、仏教の願いである彼岸に通じる。これを悲観的に捉える向きもあり、「んに尽きる」というような言い方をすることもある。しかし、これとて人生の風景の一端で、無常を説く仏教的理が見えなくもない。

 さて、私が試みるいろは歌はこの偈の訳や以上のような考えをもとに一人生(人の一生)について仏教的な考えを巡らしながら作ったもので、それぞれの歌の頭文字を平仮名で最初から辿れば、「いろはにほへと・・・」になるように考えた。一首一首が連なり、生まれて死ぬまでの一生を歌い込んだつもりで、春夏秋冬も折り込んだ。隣り合わせの歌は同じ言葉で繋ぎ、全部が言葉の鎖で繋がるようにしたのが今ひとつの工夫である。

                                           

 「ん」はいろは歌と同様「京」に置き換え、番外とせず、最後の一首に据えた。この一首は仏教の教えに習い、輪廻転生を試みて、最初の一首に言葉で繋いだ。よって、一連四十八首は言葉の数珠によって繋がれ、円環するようにしたのがこのいろは歌の今一つの姿である。また、日本語はいろは順のほかに、あいうえおの母音から展開する五十音節によるものがある。これはインドでいうところのサンスクリットの音節、悉曇(しったん)を基に日本語の音節に合わせたものと言われ、この清音に漢語の知識等によって濁音、半濁音、拗音などを加えて成り立たせている

 上代では清音に五十の音節が見られたが、あ行、や行、わ行の同音を平安中期前後の文献を参考にした江戸時代の国学者契沖が四十七音を基準にして作り上げた歴史的仮名遣いを用いるようになった。更にあ行の「い」・「え」・「お」とわ行の「ゐ」・「ゑ」・「を」が同音と見なされることになって、現代仮名遣いでは五十音のうち四十四音をもって表わし、現在に至っている。表にすればわかりやすいが、「ん」を除くいろは歌の字数四十七字は、契沖の歴史的仮名遣いによるところのもので、五十音節表では重なりを生じているのがわかる。いろは順のように、この五十音節表の最後に「ん」を置けば、「あ」と口を開いて始まり、「ん」と口を閉じて終わる阿吽の思想というものも見えて来る。

 この思想をもってあるのが、寺院に見られる金剛力士(仁王)像であり、神社に見られる狛犬の姿であって、これは人の生死にも当てはめて言える。人はこの世に生れ出るとき、口を開けて声を出す。これが「阿」であり、そして、人は黙して死に至る。これが「吽」である。言わば、阿吽は始めと終わりを示す形で、「あ」の始めと「ん」の終わりの間にあるのがこの世であり、この世を生きて行くのが私たちであるということになっている(このブログ<234>金剛力士の項参照)。例えば、東大寺で言えば、金剛力士(仁王)像の阿吽像が見守る南大門をくぐって彼岸の大仏さんのもとへ行くことになっている。仏さんの彼岸は曼荼羅に表現されているが、大仏さんの座っている大蓮座の蓮弁には理想郷である曼荼羅の世界が毛彫りされていることはよく知られるところである。では、以下に四十八首を記す。 写真はイメージ。  ~次回に続く~