<538> 万葉の花 (74) かはやなぎ、かはやぎ (川楊、河楊)=ネコヤナギ (猫柳)
ほらそこに 来ている みんなが 待ちし春
霰降り遠江の吾跡(あど)川楊刈りつともまたも生ふとふ吾跡川楊 巻 七 (1293) 柿本人麻呂歌集
河蝦(かはづ)鳴く六田(むつた)の河の川楊のねもころ見れど飽かぬ河かも 巻 九 (1723) 柿本人麻呂歌集
山の際(ま)に雪は零りつつしかすがにこの河楊は萌えにけるかも 巻 十 (1848) 詠 人 未 詳
山の際の雪は消(け)ざるをみなぎらふ川にし添へば萌えにけるかも 巻 十 (1849) 詠 人 未 詳
集中にヤナギが登場する歌は四十首。そのうち川楊、河楊(かはやなぎ、かはやぎ)の表記で見える歌が三首とこれに付随する歌が一首見える。冒頭にあげたのがこの川楊、河楊に関わる四首で、この川(河)のつくヤナギは葉の開出よりも花の咲くのが早い水辺に生えるネコヤナギと見られることから、ヤナギとは別項に置いた次第である。
1849番の歌は「柳を詠む」と題された八首中の一首で、歌にはヤナギを示す言葉は見られないが、「川にし添へば」の箇所が原文では「川之副者」となっており、前に置かれた1848番の歌を引き継ぐ形で詠まれた形跡が見えることや「副」を「楊」の誤記とする説もあることから河楊を詠んだ歌と見なせる。
『柿本人麻呂歌集』の旋頭歌、1293番の歌は「遠江の吾跡の川楊よ、刈ってもまた生えて来るという吾跡の川楊よ」というほどの意である。「霰降り」は「遠」にかかる枕詞として用いられている。また、同歌集の1723番の歌は「蛙の鳴く六田の河の川楊の根のようにこと細かく見ても見飽きることのない川であるよ」という意で、「川楊」は「ねもころ」を導く序の形で用いられている。
六田は吉野川の左岸に当たる吉野町の地名で、昔は対岸の大淀町北六田との間に「柳の渡し」と呼ばれる渡しがあって、舟による往来が見られ、吉野山から大峯奥駈の峰入りの起点でもあったところで、往時はにぎわったと言われる。
歌に見える「六田の河」とは、吉野川のこの辺りを「六田の淀」と称していたことに重なる。支流の奥六田川が流れ入っている辺りで、「奥六田」の「奥」が「六田の河」と「六田の淀」の「河」と「淀」が同じであることをよく示している。つまり、合流する辺りの吉野川を「六田の河(淀)」と呼んだと察せられる。
河蝦(かはづ)が鳴いていたのはこの岸辺り、川(河)楊のネコヤナギも多く見られたことが想像される。もちろん、見飽きないと詠人に言わせたこの辺りは川幅が広く、眺望の開けたところで、川原にはオギが群生し、自生のネコヤナギもちらほら見受けられる今もその風情を残している。
1848番の歌は花が開出する時期の歌で、雪が降る中、萌え出ている早春の情景がよく表現された歌である。1849番の歌も川面の輝きの中で、花序が陽光に浮き立つ姿が捉えられ、雪との対比によって早春の季節感が伝わって来る。
なお、ネコヤナギはヤナギ科の落葉低木で、全国的に分布し、川岸などの水辺に多く見られる。葉は長楕円形で、先が尖る。花は雌雄別株で、早春のころ葉に先がけて咲く。長楕円形の無柄の花序を枝々に多数つけ、この花序がネコの毛のようにふさふさしているのでこの名がある。また、これに子イヌを連想し、エノコロヤナギとも呼ばれる。大和でもよく見られるが、河川の改修などで徐々に姿を消し、平野部では少なくなって久しい。木質がしなやかなので、昔は炭俵の桟俵に利用していた。最近は品種改良された園芸種が切り花の花材として売り出され、山間地の収入源になっている。
写真左は花を咲かせるネコヤナギ。中央は皮を被って小鳥が枝にとまっているように見える雌花。右は咲き切った雄花。いずれも奈良県吉野地方の山間地の川辺での撮影による。