大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年02月10日 | 万葉の花

<527> 万葉の花 (71) つばき (椿、海石榴、都婆伎、都婆吉)=ツバキ (椿)

       椿咲く つばらつばらに 父の声

     巨勢山(こせやま)のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を                     巻 一 ( 5 4 ) 坂 門 人 足

    三諸は 人の守(も)る山 本辺は 馬酔木花咲く 末辺は椿花咲く うらくはし 山そ 泣く子守る山                                                                                                                                                                 巻 十三 (3222) 詠人未詳

    紫は灰指すものそ海石榴市(つばいち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に逢へる児や誰       巻十二 (3101)  詠人未詳

 集中にツバキは長短歌合わせて九首に見える。原文の表記は万葉仮名による都婆伎、都婆吉が各一首、椿が四首、海石榴が三首である。ツバキは『古事記』の雄略天皇の条の長歌に葉と花が詠まれ、『日本書紀』では景行天皇紀で、ツバキによって椎(つち)を作り、これを兵に授けて土蜘蛛を退治したという話が記され、古来よりよく知られた樹木であったことがわかる。

 椿は『万葉集』に初めて用いられた表記で、春に花を咲かせる木の意によって用いられた国訓で知られ、中国の椿(ちん)とは全く関係なく、我が国で発想された広義の国字であるとも言われている。海石榴は我が国のツバキが中国に渡り、中国では渡来品に海の字をつける習わしがあり、ツバキにも海をつけ、花や実が石榴(ざくろ)に似ていることから海石榴の名がつけられ、これが逆に我が国にもたらされたものであると言われる。

 ツバキはツバキ科の常緑広葉の高木で、暖地性の照葉樹として知られ、日本の風土に適し、主にヤブツバキ(一名ヤマツバキ)とユキツバキが列島の南北で分布を分け、この二種の雑種と沖縄や屋久島に分布するヤクシマツバキ等が自生し、昔から有用な樹木として親しまれて来た。このツバキの分布は昔から変わらず、園芸種のまだ登場していなかった万葉当時も今に等しく、大和はヤブツバキの分布圏で、ツバキと言えば、このヤブツバキを言い、記紀や『万葉集』に登場するツバキも、表記如何にかかわらず、みなこのヤブツバキであったと言われる。

 ツバキの語源については、葉に厚みがある厚葉木と葉に光沢があり、艶やかに見える津葉木(艶葉木)との説があり、『万葉集』に見えるツバキの九首中、54番の人足の歌のようにその艶(光沢)のある葉の特徴をもって「つらつら」や「つばらかに」などの言葉を導く役目として用いられたものが九首中の四首に見える。

 54番の人足の歌は、「巨勢山に連なってつやつやと葉が光って見えるツバキのようにその艶やかなのを見ながら巨勢の春野を偲ぼう」というもの。巨勢は現在の御所市東部の古瀬の辺りで、近鉄吉野線とJR和歌山線の吉野口駅付近に当たる。その西側に横たわる小高い山が巨勢山で、麓の阿吽寺はツバキで知られるお寺で、昔はこの辺りにツバキが多く自生し、春には花が見られたのだろう。

              

 花の色や形に触れている歌は見られないが、花は九首すべてに意識されて詠まれている。『日本書紀』には天武天皇紀に「吉野人宇閉直弓、白海石榴を貢れり」という記事があり、白い花の登場を見るが、これは白い花が極めて珍しいもので、献上されたことを言うものであろう。『万葉集』に登場する花は普通に見られる黄色い蕊の赤い花であったことが思われる。なお、3101番の海石榴市という市の名称で用いられたケースが二首見えるが、市の名称なので、その数の中に加えなかった。

 3222番の歌は、「三諸(神の山・三輪山か)は人が大切に守る山で、馬酔木が麓の方に花を咲かせ、山の頂の方には椿が花を咲かせ、まことに麗しい山である」というほどの意。ツバキは常緑樹で、神と結びついて神の山に多く見られたことがうかがえる。なお、3101番の海石榴市を詠んだ歌は、「海石榴市の辻の道で逢ったあなたはどこのどなたでしょうか」と問う男の歌で、次の3102番の歌に「たらちねの母が呼ぶ名を申さめど路行く人を誰と知りてか」とあり、女の方が「私の名を申し上げてもいいけれども、まずはあなたさまの方からおっしゃってくださいよ」と応え返し、名を名乗らないような男に申す名はないと暗には言っている問答歌であるのがわかる。これは市中における当時の若い男女の関わりが見て取れる歌ということで、当時の世相の一端が垣間見られる貴重な歌であると言える。

 海石榴市は三輪山の南西に当たる大和川の近くにあったとされる交通の要衝に設けられた古代の交易市で、人の往来があり、歌垣なども催され、前掲のような問答歌の生まれる素地があった。この市を海石榴市と呼んだのは、霊木の認識が持たれていたツバキがその市のシンボルとして植えられていたというのが専らの説で、大きなツバキが目印に植えられていたのか、周囲を囲むように植えられていたのかなどは定かでないが、ツバキが何らかの形で市に関わっていたことは間違いないと思われる。

 また、「灰指す」とは、染料植物のムラサキ(紫草)による染めつけをするとき、ツバキの灰を媒染剤に用いたことを言うもので、当時においては貴重な存在としてあり、海石榴市でも取り扱われていたのではないかと想像される。歌の中の「灰」は意味深であるが、冒頭にあげた三首を見分するだけでも、ツバキの当時の姿というものが認識出来る。