山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

十三詣りから五十五年

2008-04-27 12:19:07 | くるま旅くらしの話

東海村はわが国最初の原子力発電所が設置された所として有名だが、この村に村松虚空蔵尊という真言宗のお寺がある。本尊に虚空蔵菩薩を祀ったものだが、これには日本三大虚空蔵尊というのがあり、会津の柳津(やないず)、伊勢の朝熊山(あさまやま)と並んで、村松の虚空蔵尊もその一つである。

いきなり妙な話となったが、滝桜の帰り道、日立から新しく海岸沿いに出来たバイパスを利用して、珍しく東海村を走る道を通ることにしたからだった。私にとっての東海村は、原子力発電所などではなく、何といっても十三詣りの思い出なのである。

この地方では、私が育った頃には七五三の風習はあまり聞いたことがなく、子どもの息災等を願う行事としては、十三歳になった時に、村松虚空蔵尊へお詣りをするのが常となっていた。父に連れられて弟と一緒にお詣りしたのを覚えている。覚えているといっても、お寺のことは全く記憶になく、お寺の境内の向うにある海岸を歩いたのを思い起こすだけなのである。どういうわけか、そのときの写真が一枚残っていて、アルバムに貼ってある。その頃父がカメラを持っていたようには思えないので、一体誰が撮影したのか、どうしてこの写真が残っているのか判らない。しかし、確かに十三詣りの時の写真に間違いない。不思議な一枚なのである。

国道245線を大洗の方に向かって走っていると、左側に虚空蔵尊の案内板が見えた。道脇に駐車場もあったので、とにかく立ち寄ることにしたのだった。前置きは長かったけど、ここに寄ったのは、瞬間の思いつきのようなものである。もし駐車場が目に入らなかったら、たちまち通過してしまって、このような記事にはならず、チラッと昔の思い出が頭の中を過()ぎるだけのことだったと思う。

虚空蔵尊を訪ねるのは、その十三詣りの時以来なのである。数えてみれば既に五十五年が経っている。連れて来てくれた父も、お詣りに出かけるのを見送ってくれた母も、もはやこの世には居ない。随分と長い時間が経過したものである。5分ほど歩いて山門を潜(くぐ)り、本堂に参詣する。亡き父母の供養の思いをこめ、般若心経を誦す。

 

村松虚空蔵尊の本堂。この手前に立派な山門がある。平日とあって、参詣者はほとんど見受けられなかった。

記憶からは消えていたお寺の構えは、想像以上に立派だった。このようなコメントを書くのは、虚空蔵菩薩に対しても、お大師様に対しても真に失礼な話であることは重々承知してはいるけど、凡人の記憶のたどたどしさ、貧しさは如何とも仕様がない。お許しあれ。

しばらく境内の中を散策した。松林の向うにある海の方までは行く余裕がなく、新緑の樹の下を歩いただけだったが、その昔のことが強く思い起こされて、反省しきりの時間だった。何の反省かといえば、親不孝の思いが一番大きく、更にはふるさとというものを大切にしてこなかった己の心の貧しさである。ここまで生きて来れたのも、その昔の十三詣りにこめたられた父母やふるさとの愛情のお蔭なのだ。改めて感謝したい。

お詣りして気づいたのですが、このお寺の管理者の方に一つだけお願いしたいことがあります。それは境内の奥の方にある三重塔の相輪(塔の上にあるアンテナのようなもの)が傾いているのを早急に直して頂きたいということです。どうしてこのようなことになってしまっているのか判りませんが、これを見ていると、お寺さんの尊厳が失われるような感じとなり残念に思います。厚かましいお願いであるとは承知していますが。

   

   三重塔の相輪が傾いているのが残念。

 

※ これで滝桜見物関連の話は終わりです。今日(4/28)から(もしかしたら27日から→26日に2回載せた時)半月ほどの旅に出かけます。ブログは携帯での投稿となります。文字も写真も小さくなりますので、あしからずご了承ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勿来の関の桜

2008-04-27 00:38:30 | くるま旅くらしの話

茨城県と福島県の県境近くの福島県側に勿来の関がある。滝桜見物の帰りには、白水阿弥陀堂の次にここに寄り道をした。というのも、何度もこの道(=国道6号線)を通りながら、今まで一度も、その関所跡を訪ねたことがなかったのである。今日はどうしても寄ってみることにしたのだった。

勿来の関は、念珠(ねず)ヶ関、白河の関と並んだ奥州三古関の一つである。白河の関だけは、どういうわけか何回か訪ねているけど、念珠ヶ関は一度も近くを通ったことさえない。そして勿来は今日が初めての訪問である.

白河の関といえば、能因法師の「都をば霞とともに立ちしかど、秋風ぞ吹く白河の関」の歌が有名で、これははるばるやって来た秋の風情を詠んだものだが、勿来といえば、源義家の「吹く風を勿来の関と思えども 道も背に散る山桜かな」とこちらは対照的に春の風情を詠んだことで有名である。今回は観桜が主目的だったから、勿来の風情を味わうのも意味のあることではないかと立ち寄った次第でもあった。

国道6号線に沿って走るJR常磐線の、勿来の駅を過ぎると直ぐに右折して鉄道を跨ぐ道があり、それがいわき方面からの勿来の関跡への入口となっている。5分ほど緑の木々の間の坂道を登ると、直ぐに関所跡に到着した。海からさほど遠くない急な山崖の上にあり、平安の昔は旅の人にはかなり厳しい場所に設けられていたのが判る。源義家の銅像が建てられ、幾つかの記念碑が建っていた。

  

 勿来の関跡の景観。銅像の脇の小さな門をくぐると、関所跡の碑などが幾つか建っており、一帯は公園となっている。

源義家といえば、武家の頭領(新興武士勢力の象徴)であり、八幡太郎義家と呼ばれ、全国に数多い八幡宮に祀(まつ)られているその人であるが、歴史の中ではさほど輝いた武功の人とも思えない。陸奥の守となって赴任し、後三年の役で僅かに戦功を上げたものの、中央ではあまり評価されなかったようである。その人が何故武家の頭領なのか、それは後年の歴史が彼を押し上げ、つくっていったように思う。本人への報われ方とは無関係に、後年になって神と祀られるような人物の崇(あが)められ方は、歴史の中では時々登場するようである。天神様の菅原道真公などもその一人であろう。

東北地方と関東地方の分岐点といえば、どうやらこの辺りらしい。関所址の碑とともに、「奥州の宮」「関東の宮」の小さな石造りのお宮が置かれていた。いずれも往時の国境(くにざかい)の守り神として祀られたものらしい。関東の宮の方は屋根が崩落していて、いかにも時代の過ぎたことを語っているように思えた。千年近い昔のお宮といえば、大方はこのようなものではなかったかと思いを馳せた。

  

 国境(くにざかい)の守り神のお宮。左は奥州の宮。右が関東の宮。この二つの小さな石造りのお宮を見ていると、千年近い昔の人々の思いが伝わってくる感じがする。

この頃になって、よく東北地方や北海道を旅するようになり、地元の歴史を訪ねる機会が多くなるにつれ、この地方に対する歴史認識が大きく変わりつつある。中央からいえば厄介な蛮族の蝦夷などが住む僻地(へきち)という感覚なのであろうが、現地に住む人たちから見れば、平和を乱す侵入者以外の何ものでもなかったに違いない。この頃は現地に住む人たちの味方という意識が強まっている。そもそも「征夷大将軍」などというのは、けしからん侵略者の看板である。

ま、このようなことが言えるのも、今という時代に辿りついたからこそなのであろう。

その昔、源義家が、降りかかる桜の花のあまりの美しさに感動して、それを歌にしたというその山桜は、既に花が残り少なくなっていて、往時の風情を偲ぶにはやや不足している感じがした。花の美しさというのは、初めから咲いているのが判っている場所を訪ねるよりも、見知らぬ土地で傍にあるのをふと気づいた時に、より多くの感動を味わうのではないかと思う。戦(いくさ)への不安を心の内に抱えながら、通りかかった祖国から遠い異郷の山の中で、降り注ぐ花の舞いに心を打たれた武将の心情が伝わってくる名歌だと思う。

  

再び銅像と桜。桜の花を強調したいのだけど、ここにはこの木だけしかない。わずかに花びらが散っているのがお判り頂けるだろうか?

 桜の花というのは、どのような状況に置かれた人であっても、その心を浄化し、癒す力を秘めているようである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする