茨城県と福島県の県境近くの福島県側に勿来の関がある。滝桜見物の帰りには、白水阿弥陀堂の次にここに寄り道をした。というのも、何度もこの道(=国道6号線)を通りながら、今まで一度も、その関所跡を訪ねたことがなかったのである。今日はどうしても寄ってみることにしたのだった。
勿来の関は、念珠(ねず)ヶ関、白河の関と並んだ奥州三古関の一つである。白河の関だけは、どういうわけか何回か訪ねているけど、念珠ヶ関は一度も近くを通ったことさえない。そして勿来は今日が初めての訪問である.
白河の関といえば、能因法師の「都をば霞とともに立ちしかど、秋風ぞ吹く白河の関」の歌が有名で、これははるばるやって来た秋の風情を詠んだものだが、勿来といえば、源義家の「吹く風を勿来の関と思えども 道も背に散る山桜かな」とこちらは対照的に春の風情を詠んだことで有名である。今回は観桜が主目的だったから、勿来の風情を味わうのも意味のあることではないかと立ち寄った次第でもあった。
国道6号線に沿って走るJR常磐線の、勿来の駅を過ぎると直ぐに右折して鉄道を跨ぐ道があり、それがいわき方面からの勿来の関跡への入口となっている。5分ほど緑の木々の間の坂道を登ると、直ぐに関所跡に到着した。海からさほど遠くない急な山崖の上にあり、平安の昔は旅の人にはかなり厳しい場所に設けられていたのが判る。源義家の銅像が建てられ、幾つかの記念碑が建っていた。
勿来の関跡の景観。銅像の脇の小さな門をくぐると、関所跡の碑などが幾つか建っており、一帯は公園となっている。
源義家といえば、武家の頭領(新興武士勢力の象徴)であり、八幡太郎義家と呼ばれ、全国に数多い八幡宮に祀(まつ)られているその人であるが、歴史の中ではさほど輝いた武功の人とも思えない。陸奥の守となって赴任し、後三年の役で僅かに戦功を上げたものの、中央ではあまり評価されなかったようである。その人が何故武家の頭領なのか、それは後年の歴史が彼を押し上げ、つくっていったように思う。本人への報われ方とは無関係に、後年になって神と祀られるような人物の崇(あが)められ方は、歴史の中では時々登場するようである。天神様の菅原道真公などもその一人であろう。
東北地方と関東地方の分岐点といえば、どうやらこの辺りらしい。関所址の碑とともに、「奥州の宮」「関東の宮」の小さな石造りのお宮が置かれていた。いずれも往時の国境(くにざかい)の守り神として祀られたものらしい。関東の宮の方は屋根が崩落していて、いかにも時代の過ぎたことを語っているように思えた。千年近い昔のお宮といえば、大方はこのようなものではなかったかと思いを馳せた。
国境(くにざかい)の守り神のお宮。左は奥州の宮。右が関東の宮。この二つの小さな石造りのお宮を見ていると、千年近い昔の人々の思いが伝わってくる感じがする。
この頃になって、よく東北地方や北海道を旅するようになり、地元の歴史を訪ねる機会が多くなるにつれ、この地方に対する歴史認識が大きく変わりつつある。中央からいえば厄介な蛮族の蝦夷などが住む僻地(へきち)という感覚なのであろうが、現地に住む人たちから見れば、平和を乱す侵入者以外の何ものでもなかったに違いない。この頃は現地に住む人たちの味方という意識が強まっている。そもそも「征夷大将軍」などというのは、けしからん侵略者の看板である。
ま、このようなことが言えるのも、今という時代に辿りついたからこそなのであろう。
その昔、源義家が、降りかかる桜の花のあまりの美しさに感動して、それを歌にしたというその山桜は、既に花が残り少なくなっていて、往時の風情を偲ぶにはやや不足している感じがした。花の美しさというのは、初めから咲いているのが判っている場所を訪ねるよりも、見知らぬ土地で傍にあるのをふと気づいた時に、より多くの感動を味わうのではないかと思う。戦(いくさ)への不安を心の内に抱えながら、通りかかった祖国から遠い異郷の山の中で、降り注ぐ花の舞いに心を打たれた武将の心情が伝わってくる名歌だと思う。
再び銅像と桜。桜の花を強調したいのだけど、ここにはこの木だけしかない。わずかに花びらが散っているのがお判り頂けるだろうか?
桜の花というのは、どのような状況に置かれた人であっても、その心を浄化し、癒す力を秘めているようである。
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