山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

野の花の至宝:スミレ

2008-04-19 00:37:17 | くるま旅くらしの話

ヴァイオレットといえばスミレのことです。春の野に小さな紫の花を見出すのは楽しいものです。わが国はスミレ天国だという話もあるようです。 普段何気なく、素通りしてしまって、スミレの花を見過ごすことが多いのですが、立ち止まって、屈みこんで、花めがね(=拡大鏡)を取り出して覗いてみると、まさにそこにはバイオレットの小宇宙があるような気がします。

「スミレの花の咲く頃、始めて君を知りぬ、……」という歌がありますが、今頃の若者たちよりもはるかに卓越した恋の感性を感じます。スミレにはそのような季節感がたっぷりと含まれているような気がするのです。

我が家の庭には、今3種類のスミレしか見当たりません。その倍くらいあった筈なのですが、スミレは庭の中を移動するばかりでなく、何処かへ飛び出して行ってしまうらしいので、毎年同じ場所で同じような情景を味わうことは困難なのです。植物は動かないと考えている人が多いと思いますが、よく観察していると、それは必ずしも正しいとは言い切れないようです。草によらず木でさえも、結構動き回っていることが多いのです。

屋久島に行った時、縛り首の木というのを見ましたが、これなんぞは木に木が絡まって、一方を絞め殺して枯らしてしまうのだそうで、明らかに木にも何らかの意思があるのだなあと、驚いたことがあります。人間と同じ時間感覚では到底理解できませんが、木の使っている時間や草の使っている時間で彼らを覗いてみると、決してじっとしているのではなく、生きて動いているのが判るのです。

我が家のスミレはやたらに動き回るので、鉢に入れたのもあります。基本的に庭の中のタチスボスミレは自由にさせていますが、写真のスミレ(これが一般にスミレと呼ばれているもの)は、一番スミレらしく思いますので、この一株の他は、鉢に入れており、花が咲き終わって実がはじける頃にタネが遠くに飛ばないようにプラスチックの蓋をすることにしています。彼らにとっては、かなり迷惑な話なのは分っていますが、やっぱりそこに居てもらって、来年もその美しい花を見せて欲しいのです。

今日(4/18)は終日の雨の中を所用で走りまわり、疲れた一日でした。旅に出かけたいのですが、もう少し我慢が必要なようです。ブログも、久しく旅の話から遠ざかっており、このままじゃあ、タイトルを変更しなくちゃならないな、と不安を感じているこの頃です。

   

我が家の庭のスミレの一株です。スミレは日本に50種類ほどが生息しているようですが、この品種がスミレの代表のようです。小さいながらにキリッとした品位があり、私の好きな野草の一つです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリンピックは必要か?

2008-04-18 00:03:53 | 宵宵妄話

最近オリンピックに関するニュースが多い。チベットの人権問題と絡んで、聖火リレーへの抗議行動などの状況が、世界のあちらこちらから殆ど毎日届いている。聖火ランナーの周りに、開催国から派遣されたトレーナー姿の変なランナーが一緒に走り、それが聖火を守っているのだとか。何だか異常な気がする。

異常と言えば、異常ずくめでもある。オリンピックには政治だけではなくコマーシャリズム(=商業主義)も当たり前のように蔓延(はびこ)って、オリンピックの運営を経済面で支えているという顔をしている。アマチュアリズムはもはや過去の話となったし、近代オリンピックの父、クーベルタン卿がこの現状を見たなら、どのように評価のコメントされるのであろうか。

もともとこの種の大会の催しを、政治と切り離して考えることなど不可能だと思う。国という存在がある限り、政治と無縁な国際的催しなど無いといっていいのではないか。何事も起こらなければ黙っている政治も、国の利害得失に大きく影響を及ぼすと判断すれば、黙っていることなどありえない。

オリンピックは、アマチュアリズムがその信条であったが、東西冷戦時代の政治の国家体制がその精神を遠いものとしたことは明らかだ。オリンピックに参戦(参加ではない)し、国家的成果であるメダルとやらを獲得すれば、国がその人の生涯を保証するという国家の政治システムに組み入れられた選手と、寄付を仰ぎ自腹を切りながら練習を続ける選手との参加条件を問わないというほど、世界は競技の平和性について寛大ではないであろう。

そもそもスポーツというのは競技であり、戦いである。それが如何に平和のためとはいえ、その本質は相手を退け、勝利者を目指すというものなのだ。その競技において、最高の勝利者を生み出すことに国が無関心で居るはずがない。国威高揚の絶好のチャンスなのである。形振(なりふ)り構わずの取り組みとなるのは自明のことである。それが必ずしも悪いこととは思わないが、ここ数回のオリンピックを見ていると何だか次第に感動が薄れ、国家のエゴとそれに乗っかって自己の名誉欲を満たそうとする選手だけの世界のような気がして、次第に共感を覚えなくなってきている。

日本の取り組みなどを見ていると、やたらにメダルの獲得などということに囚われ、競技を運営する各種委員会などの偉い人たちは皮算用ばかりしているようだ。一方で選手といえば、最近の流行なのか、「オリンピックに行って競技を楽しみたい」などという安穏(あんのん)なのか、あるいは或る種のやけくそなのか、そのような類のセリフを吐く人が多い。かなり重い使命を背負っていると思うのだけど、インタビューなどを聞いていると、軽い感じがする。実際は決して軽い気持ちであるはずが無いとは思うけど、もう少し選ばれた者としての重さを実感させるセリフが聞きたいなと思う。これはもしかしたら、時代から取り残されつつある老人の我がままな繰(く)り言なのかもしれない。

中国がオリンピックを重視するのは解るが、チベットの問題は深刻だ。ロシアのチェチェンの問題もそうだけど、自国から独立をしようとする者たちに対しては、絶対権力を行使するのが当然となっている。多民族国家においては、独立問題は永遠の課題なのかも知れない。古代中国に、本当に尭(ぎよう)・舜(しゅん)のような太平の時代があったのかどうかは知らないけど、今の中国の治世が鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の世に遠く及ばないことは明白だ。チベット問題に関しては、双方の建前と本音の関係がどうなっているのかさっぱり解らないので、コメントは困難だけど、TVの画像を見る限りでは、中国当局の対応が人権を無視していることは明らかなようだ。

オリンピックの聖火リレーとチベット問題がくっついてしまったことは、中国にとって不運であったといえるが、そのような不運などものともせずに我を通すのが中国流のようであるから、北京での開催は、国家の威信をかけて、予定通り滞りなく進捗(しんちょく)するのであろう。13億の人民を抱えた大国の急速な発展は、オリンピックを期に益々そのスピードを加速するに違いない。農業薬害や排気ガスなどの汚染問題などはものともせず、温暖化などは知ったことではないというのが中国の本音だとしたら、地球は同時に破壊の加速化を増強するに違いない。

本来のオリンピックの話から少し外れてしまったが、現代のオリンピックは明らかにクーベルタン卿の掲げた理想から次第に遠ざかりつつある。人間社会というのは、理想に近づくことが進歩の証なのだと思うのだけど、次第に遠ざかっているのはなぜなのだろうか?

しばらくオリンピックを休みにしたらどうだろうか。波及効果の方ばかりを重視して、平和という建前の陰で蠢(うごめ)いているドロドロとした思惑の不快さを想う時、オリンピックなんかもういいや、という気分が強くなってきている。オリンピックの5つの輪は、もはや丸ではなく歪んでしまっている。これが修正されるまで休んだらどうか。国を挙げてのメダル競争などしなくても、スポーツの競技を楽しむ方法はいくらでもあるのだから。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変な花:エンレイソウ

2008-04-17 01:39:00 | 宵宵妄話

エンレイソウとは、「延齢草」と書くようです。齢(よわい)を延ばす花というのですから、験(げん)の良い花なのでしょう。北国へ行けば、ちょっとした山の木陰などに入って探せば、幾らでも点在しているユリ科の花です。

初めてこの花を見たときは、何だか変な花だなあと思いました。三枚ある葉っぱの真ん中から、いきなり花を咲かせているのです。このような形で花を咲かせる植物は他にあまり見かけません。如何なる生存戦略で、このような形になったのか、真に不思議な感じがします。

我が家のエンレイソウは、2度目の来客です。来客といっても実は強制的につれて来たに過ぎないのですが、……。最初は福島県の何処か通りすがりの山の中で、一株採取してきて鉢植えにしたのでしたが、翌春にいくら待っていても芽は出てきませんでした。湿り気のある条件が必須の植物のようなので、ベランダに置きっ放しにしたままで旅に出かけてしまうような住人に捕まったら、一巻の終わりとなってしまうようです。それで、しばらくそのような悪さをすることは止めにしていたのでした。

ところが、ようやく土地のある住まいを得ることが出来ましたので、今度は大丈夫と、現在のものは確か青森県は小川原湖畔の林の中でお目にかかったものの中から、一株を採取してきたものだと思います。思うなどと曖昧なのは、何だか他の場所のような気もするからなのです。記憶というのは、時を経るごとに真に曖昧なものとなってしまうようです。

今度のエンレイソウは、しっかり根づいてくれていて、去年は一本しかなかったものが、今年は4本ほど芽を出して花を咲かせてくれています。結構逞(たくま)しさも持ち合わせているようで、少し安心しました。

この花をよく見るとなかなか気品のあるように感じます。紫の花は、盛りを過ぎると緑がかった色になって、変化の大きいのにも驚かされます。延齢草という謂(いわ)れも、このような花の咲き方に所以(ゆえん)しているのかも知れません。やっぱり、変わった花だなあ、と思います。

   

 我が家のエンレイソウ家族です。今年は4本になりました。小さくても3枚の葉の真ん中から、それぞれが一層小さな花を咲かせようとがんばっています。左上の紫の花はタチスボスミレ、右上の白い花はニリンソウです。 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三番目のイカリ草

2008-04-16 05:55:13 | 宵宵妄話

  今回もイカリ草の話です。我が家のイカリ草の中では最も古いお付き合いの一株です。

もう10年近く前になると思いますが、まだ現役時代の五月の連休に、一週間ほどの東北の旅をしました。東北の各県には様々な思い出がありますが、その当時は特に青森県を訪ねることが多く、旅の行程の半分くらいは青森県で過ごすのが普通でした。

五能線に沿って国道101号線が走っています。この道は大間越(おおまごし)街道とも呼ばれ、海岸線に沿って、とても風光明媚な景観が拡がっています。大間越というのは、津軽藩の関所(=番所)があった所で、参勤交代で碇ヶ関の関所が使われだすまでは、こちらの方が多用されていたとのことです。また、大間越は世界遺産、白神山地の中心の白神岳への登山口の一つが近くにあり、少し離れたところには日本キャニオンなどと呼ばれる岩肌がむき出しになっている場所もあって、アウトドア志向の者には、とても魅力のある場所なのです。

五能線大間越駅近くのキャンプ場にお世話になったのですが、早朝に起き出し、裏山に登った時に見つけたのが今日のイカリ草なのでした。別に捜し求めていたのではなく、この辺にはどのような野草があるのかな、と訪ねる気持ちだったのですが、沢の藪の中に巨大な白い花をつけたイカリ草を見つけたときは感動しました。その後周辺をよく見ると、イカリ草は幾らでも生えているのです。この辺ではごく当たり前の植生だったようです。それならば一株くらいは良いんじゃないかと勝手に決め、採取して家に持ち帰り、鉢に植えたのでした。

図鑑で調べて判ったのは、これはトキワイカリ草であるということでした。トキワというのは、常盤、または常葉のことであって、その名のとおり、一年中葉をつけているという意味です。ですからこのイカリ草は一年中葉をつけているのが普段の姿なのです。ところが家に持ち帰った後は、かなり頑張ってくれていたのですが、冬になる頃には葉が枯れてしまい、もうこれで終わりになったのかなと寂しい思いをしたのでした。それでも念のため鉢をそのままにして置き、時々水遣りをしていたところ、何と春になって芽を出し、立派な花を咲かせてくれたのでした。その最初の春の嬉しかった思い出は今でも消えることはありません。

この野草は、花の優しさには似合わず、大変強靭な生命力を持っているようです。10年近くもベランダであろうと、ものともせずに生き抜いてきてくれています。今は地植えになったので、益々勢いが増すのではないかと期待しています。野生時よりも花は少し小さくなってしまいましたが、これには何か理由があるのかもしれません。訊いてみても笑っているだけです。

     

 我が家のトキワイカリ草。今は常葉ではなく冬には葉が枯れてしまい、切ってしまっているのですが、毎春新しい葉を元気良く芽生えさせてくれ、やや大型の純白の花を一層引き立ててくれます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イカリ草の話

2008-04-15 05:59:28 | 宵宵妄話

  休養などといっても、言葉遊びなので、要するにくるま旅くらし本来の話から大きくズレた時には、その心の内は休養ということにしたいと思います。ま、どうでもいいことなのですが。今日はタイトルに休養を使うのをやめました。

 昨日は、佐渡から連れて来た(おばちゃんの好意で、強制的に)イカリ草の花を紹介させて頂きましたが、今日は、3種類のイカリ草の内、最も一般的なイカリ草をご披露させて頂きます。そのイカリ草というのは、何年前か正確な時は忘れましたが、春の東北の旅の終り近くに、秋田県の峰浜の道の駅(今は八峰町となっている)で、余りに立派に咲き誇っているのを見て感動し、無理かなと思いつつ、ついに買い求めてしまったものです。

 その時はマンション住まいだったので、花が終わったあとのケアに苦労しました。ベランダというのは、野草たちにとっては恐らく地獄の世界なのだと思います。旅に出かけて置き去りにしてしまうと、誰も水をやる人がいなくなって、カラカラになってしまうことなどがあり、多くは買い求めた人の、その時だけの楽しみに終わり、翌年はその野草の命の芽吹きは無いことが多いのです。それを乗り越えて、今でもこの地で花を咲かせてくれています。地植えになったので、もう彼らを悩ますことは無いことでしょう。

 ところで、イカリ草の花を見るときは、というよりも全ての野草の花を見るときには、花めがね(=虫眼鏡=拡大鏡)が必携です。野草たちの花は、それが実に不思議なのですが、拡大鏡で覗くと、普段私たちが見ている花とは相当に違った世界を見せてくれます。百年一日の如く草花や樹木の花を見ている人が殆どですが、真に勿体ない見方だと思います。千変万化の不思議な世界を知ってしまうと、もう病み付きとなってしまって、春の野山を歩き回りたくなるのです。

 物事の本質を知るためには、人間の目の機能には限界があり、普段私たちは、花によらず全てのものごとの、ほんの一部しか見ていないような気がします。少し脇道に逸れたところで、今日の話は終わりです。

 

  

我が家の標準的なイカリ草の花。まだ咲き初めなので彼女たちの艶やかさもあまり目立たない。あと数日すると、この辺りは一段と輝く空間となる。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どこまで休養か

2008-04-14 04:35:37 | 宵宵妄話

今日も休養です。実際はそういう気持ちだけなのですが、しばらくは、くるま旅のことから離れて、春の樹木や野草のことなどを思いつくまま記したいと思います。本物の野の花は別として、ここで取り上げようとしているのは、多くは旅の思い出の中にあることは勿論です。

今日の野草はイカリ草です。我が家には3株のイカリ草があります。夫々に思い出がありますが、今日はその内の一つ、佐渡のイカリ草の話です。

一昨年の春、TVの取材を受け佐渡への初めての旅をしたのですが、取材が終わった後4日ほど滞在して再来のための下見のつもりで島内をうろうろしていました。小木町近くの蓮華峰寺に参詣した後、近くの山林の小路を歩いていた時に、道端の小さな崖に幾つものイカリ草が咲いているのを見つけました。持って帰るのもどうかなとためらっていたら、近くにワラビを採りに来たらしい地元のおばさん(といっても、私よりも大分に若そうでしたが)が、無造作にその一株を引き抜いて、持っていたビニール袋に入れてくれたのです。佐渡には当たり前のように、この季節(5月上旬)にはイカリ草が道端に咲いているようです。

今年が3年目の春ですが、佐渡よりは少し早く花を付けるようです。イカリ草は如何にも頼りなさそうに、細い針金のような華奢な体に、やっと芽を出したなと思っていたら、いきなり錨によく似た花を咲かせます。花には想像もつかないような変わった形のものがありますが、錨に似た花というのも珍しいように思います。

  

我が家の野草園のイカリ草の花:何という種類なのかはわかりません。普段園芸店などでよく見かけるイカリ草は、もっと赤紫がかった花を咲かせますが、この花は小ぶりな白花です。野生らしさがしっかり残っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう少し休養です

2008-04-13 00:12:01 | 宵宵妄話

休養などとふざけたことを言いながら手抜きをしていたら、何だか本当に体調不良になってきました。一週間ほど前から妙に肩の具合がおかしくなり、冷湿布をしても治らず、それじゃあ温湿布なのかなと、反対のことをやったりして、ま、どうやら温湿布の方が正解だったようですが、それでも肩の具合は一向によくなりません。

どうやら五十肩などと言われているものの様なのですが、私は今までそのような経験は一度もなく、肩が凝るということも殆ど知らずに生きてきたものですから、何だこれは?と少し迷いつつ、この妙な症状に対峙(たいじ)しています。

家内などは嬉しそうに、

「あなた、半年はかかるわよ。早く医者に行ったら。 そうやって半年もの間、温湿布を続けている気なの?」

などと言っています。何年か前、家内がその症状になった時は、あまり同情せずに、「何だ、泣き言ばかり言って、だらしない」などと突き放していたものですから、今度は存分に物申してやれると、嬉しがるわけです。

自分としては、密かにこいつは更なる老化の前触れだろうと思っていますが、何とか短期間でこの老化現象を退治してやろうと考えています。先日友人に情報を貰った気効(=座式八段錦)と坐禅でやってみるつもりです。この種の療法はダメ元で、変なものを飲んだり食べたりするのとは違って無害ですし、坐禅の効用については充分に体験していますので、再度試してみる良い機会だなと思っています。医者に行くつもりは全くありません。(まだ、治りもしない内から偉そうなこと言っちゃって本当に大丈夫なの?と思っている人は多いことでしょう。そのご期待を裏切るのが楽しいのです)

 さて、今日の野の花はアケビです。これは我が家の野草園のものですが、3年ほど前に喜多方の道の駅の傍の山の中に春蘭の株がたくさんあるのを見つけて、その一つを持ってきたときに一緒にまぎれて付いてきたものなのです。去年は小さくて棚が要るほどではなかったのですが、今年は大きくなりそうなので、野草園全体をカバーする棚を作りました。実がなるまでには数年はかかると思いますが、下にある野草たちを夏の厳しい暑さから守るためにも、これから大いに働いて貰おうと考えています。

旅でのアケビの思い出といえば、去年の春には栃尾の道の駅(新潟県栃尾市)で、アケビの芽を売っていたおばあちゃんに食べ方を教わって以来、その採取と山菜としての味の魅力にすっかり虜(とりこ)になり、家に戻ってからも随分とたくさんのアケビの芽を集め、その味を堪能(たんのう)したのでした。我が家の近くにもアケビはたくさん自生しており、山に行かなくても幾らでも手に入れることが出来るのがわかりました。5月を過ぎると、散歩の途中で「おいで、おいで」をしているアケビの芽に出会って困ってしまうほどでした。今年も楽しみです。

  

我が家の野草園のアケビの花:カメラが悪いのか、撮り方が悪いのか、いい写真が撮れず申し訳ありません。なかなか高貴な感じのする花です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

休養定着?

2008-04-12 04:06:13 | 宵宵妄話

春というのは真に不安定な天気が続きますが、このところの毎日は、その不安定のさ中にあるようです。

季節というのは、もともと冬と夏しかないというのが本質で、春と秋というのは冬と夏が交代するための短い期間を言うのだというのがわたしの考え方です。四季があるというのは、当たり前というよりも珍しいというのが当てはまるような気がします。我々日本に住む者は恵まれているというべきでしょう。

春と秋の天候が不安定なのは、短い期間に命を燃やそうとする生き物の息吹が急に膨らんだり、その反対に眠りにつこうとする生き物の最後の輝きが急激だったりすることが、もしかしたら大いに影響しているのかもしれません。これはかなり文学的な推察に過ぎませんが。

さて、今日の花はアジュガです。これは実は野草ではないらしいです。本来はジュウニヒトエ(=十二単衣)という野草らしいのですが、その詳しいことは解りません。野草ではなくても、野に逃げ出せばやっぱり野草なのだと思います。この花は数年前、武蔵野の小平の遊歩道(=水道道路)脇にあったものを採って来て、鉢に植えていたものを地植えにしたものです。ようやく集団で花を咲かせてくれるようになりました。嬉しいことです。

  

アジュガ(≒十二単衣)の花。鉢植えから地植えにして3年目。ようやく本来の賑やかな姿に近づいてくれた。冬の間の頑張りが目立つ草でもある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

休養が続きます

2008-04-11 05:28:50 | 宵宵妄話

今日もまた雨が降りました。風が無いのが救いですが、外に出かける気にはなれず、終日家の中でグータラです。

家の周りの気になる野草の開花が終わるまでは、何となくブログは触らないようにしたいなどと考えています。まだ何種類か開花を間近かに控えているものがありますので、しばらく休めそうです。

今日の花はニリン草(=二輪草)です。我が家のニリンソウについては、3月21日のブログで紹介しましたが、もうお忘れのことと思います。一つの茎に花を二輪咲かせるのでこの名があるということですが、我が家のニリンソウは長いお付き合いにも拘らず、花を咲かせる茎が少なく、ちょっぴり寂しい感じと、その分貴重さが加わっているように思っています。

東北の遅い春を訪ねると、山間の湿地帯にはこの花が群生しているのを至る所に見かけます。食用の山菜として扱っている所もあるようですが、私はまだ口に入れたことはありません。群生の花も美しいですが、我が家の庭のように数えるほどしかない花を愛でるのも春の楽しみです。ようやく数個の花が咲き始めました。

 

得体の知れないコケの襲来から逃れて、ようやく花を咲かせてくれた我が家のニリンソウの一株です。カタクリはもう開花が終わって、眠りについたようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

休養は嬉しい?

2008-04-10 00:09:14 | 宵宵妄話

何で今頃毎日荒天なの?という感じがしますが、今日は天気も曲げたへそを戻して、少し機嫌を直したようです。すかさず栃木県の大平町にある大平山に桜を見に行ったのですが、TVの紹介が効いたのか千客万来で、何処にも車を停めること叶わず、一回りして帰ってきました。有名観光地というのは、何処も同じようなもので、TVに出た所には行ってはいけないなとしみじみ思いました。

家に帰って、このところ開花はしたものの今一の感があったシラネアオイが、ちょっと花を開かせているのを見て、何だかホッとしました。

シラネアオイには、大きな感動の思い出があります。現役時代に仕事で訪れた函館で、午後からの仕事の前にと、早朝に駅前のホテルから歩いて函館山に登って往復した時に出遭ったのが、自生のシラネアオイでした。いやあ、あの時の感動は決し忘れることはありません。函館山の山腹を歩いていた時に、いきなり目に飛び込んできたのでした。シラネアオイは、鉢植えのものばかりしか見ていなかったのですが、北海道のこの地に自生の花があったとは夢にも思いませんでした。函館山は、軍用の基地であったため一般人の参入が叶わず、そのためにこのような自然が残っていたのだと思いますが、嬉しい出会いでした。

爾来シラネアオイには特別な思いがあります。草津の白根山あたりに行ったら、その原種に会えるのかも知れませんが、それは、今は昔の話でありましょう。もはやシラネアオイは、栽培種しかないのではないかと思っています。函館山のあの地には残っていることを切望していますが、このごろはなかなか行くことが叶いません。せめての思いで、我が家の花を眺めるのみであります。

それにしても、休養というのは、良いものですね。まだしばらく続けたい気持ちが膨らんでいます。ホンマにジジイになったのかな?(失礼)

 

 

前にも紹介しましたが、新潟県の米山の道の駅で買ってきたシラネアオイです。鉢植えのものを地植えにして3年目になります。ようやく今年の花を咲かせてくれました。あと数日すると、美しさは最高峰に達すると思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする