滝桜見物の帰り道は、福島県の浜通りを選んだ。見物の後、楢葉(ならは)の道の駅に泊まり、温泉で汗を流した後、しばし今日の観桜の想いに浸った。古希肩の疲れが重くのしかかって、一杯やった後は、たちまち爆睡となった。翌日、小名浜(いわき市)か大津港(北茨城市)辺りの市場で、カツオを1本手に入れたいという考えがあった。今年は初鰹という奴をまだほんの少ししか味わっていない。1匹くらいでないと食べた気がしないのである。このような意地汚い話となると、つい身を乗り出したくなってしまうのだが、今日はその話ではない。もっと上品な話である。
楢葉の道の駅を出発して少し走った辺りで、突然、いわき市にある「白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)」を思い出した。何年か前に家内に頼まれて立ち寄った所である。確かあの時も今頃だったと思う。三方を小高い丘の樹木に囲まれた閑静な佇まいのお堂だったように記憶している。阿弥陀様を祀ったお堂の周辺は池となっていて、その池に映る樹木の緑の鮮やかさが印象的だった。丁度良い機会なので、寄って行くことにした。家内に異存はない。むしろ私よりも積極的である。
9時半到着。以前に来た時と少しも変わっていない美しい景観がそこにあった。駐車場に車を置き、受付所のある方へ行ってみると、何と、今日は定休日で、中へは入れないという。ちょっぴり残念だったけど、阿弥陀堂の傍には行けなくても、庭園全体の景観は少しも変わらず、楽しむのに何の支障もない。
白水阿弥陀堂、正面入口からの景観。朱色の中橋を渡ると、その先に木々に囲まれた国宝の阿弥陀堂がある。
白水阿弥陀堂は、国宝である。平安時代の後期、藤原三代の初代清衡の娘の徳姫が嫁いだのが、この地の治世者だった岩城則道という方で、夫に先立たれた後その霊を弔うためにこの地にお堂を建立(こんりゅう)したとか。詳しいことは判らないけど、当時の貴族の人たちの思いを籠めた建物であり、造園だったということである。
この庭を浄土式庭園というそうである。浄土というのは、仏教の世界では穢土(えど)と対比される世界であり、現世(げんせ)が穢土すなわち汚れた世界であり、浄土というのは、仏の住む理想の世界だという。何時の世にも末世(=この世の終わり)思想というのがあるようだが、平安時代の終わり頃にも末世思想は流行(?)したらしく、貴族たちは、こぞってあの世への安静な渡来を願って、理想郷としての浄土の庭園を造ったという。それが浄土式庭園と呼ばれているのだそうな。
中橋越しの春の山の景観。もこもこと動き出した浄土世界の生命の躍動が感ぜられる。浄土世界も決して沈静化した世界ではないように思えてくる。
にわか仕込みの知識では、奥行きの浅さは覆うべくもないけど、平成の現代も末世観は、やはり拭えない。しかし、貴族でもない馬の骨では、理想郷など造る手だてもなく、あれよ、あれよという間に地獄に行くのは必定(ひつじょう)のような気がする。何時(いつ)の時代も、庶民・大衆は、末世に対する手立ては無力であり、地獄に行くしかない。ま、それはそれでいいではないか。地獄だって結構面白い所なのかも知れない。(これは負け惜しみに違いないけど)脱線失礼。
さて、その浄土式庭園は素晴らしい。奥州藤原といえば、平泉の中尊寺と並ぶ毛越寺(もうつうじ)が有名だが、ここの庭園も浄土式庭園である。白水阿弥陀堂の庭園も毛越寺庭園も親戚のようなものなのであろう。往時の貴族の人々が願った浄土とはどのようなものだったのかを偲ぶことが出来るような気がする。あの世の浄土で迎えてくれる仏様が阿弥陀様であるから、阿弥陀堂があるというのは当然のことなのであろう。
白水阿弥陀堂は、庭園に造られた池の、橋を渡った向う側の木立の中にあり、今日は中には入れなかったが、緑の中の静かな佇(たたず)まいは、阿弥陀様の微笑みを包む建物に相応しい雰囲気を醸(かも)し出していた。中には入れなくても、庭園を取り囲んだ一周300mほどの散策路があり、そこを回るだけで十二分に往時の浄土を思い浮かべることが出来る。二周ほどして何ともいえない新緑の世界を堪能した。
散策路から見た木立の中の阿弥陀堂。池に映る新緑を包むの柔らかな光が、浄土世界を体現しているようだ。
今度は、秋の風情を味わいに訪れたいなと思った。浄土の秋というのは、又違う趣があるのであろう。この緑の景観がどのように変化するのか、往時の人たちがそれをどのように受け止めたのか、今から思いをめぐらしたりしながら、春の浄土を後にしたのだった。