山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

オリンピックは必要か?

2008-04-18 00:03:53 | 宵宵妄話

最近オリンピックに関するニュースが多い。チベットの人権問題と絡んで、聖火リレーへの抗議行動などの状況が、世界のあちらこちらから殆ど毎日届いている。聖火ランナーの周りに、開催国から派遣されたトレーナー姿の変なランナーが一緒に走り、それが聖火を守っているのだとか。何だか異常な気がする。

異常と言えば、異常ずくめでもある。オリンピックには政治だけではなくコマーシャリズム(=商業主義)も当たり前のように蔓延(はびこ)って、オリンピックの運営を経済面で支えているという顔をしている。アマチュアリズムはもはや過去の話となったし、近代オリンピックの父、クーベルタン卿がこの現状を見たなら、どのように評価のコメントされるのであろうか。

もともとこの種の大会の催しを、政治と切り離して考えることなど不可能だと思う。国という存在がある限り、政治と無縁な国際的催しなど無いといっていいのではないか。何事も起こらなければ黙っている政治も、国の利害得失に大きく影響を及ぼすと判断すれば、黙っていることなどありえない。

オリンピックは、アマチュアリズムがその信条であったが、東西冷戦時代の政治の国家体制がその精神を遠いものとしたことは明らかだ。オリンピックに参戦(参加ではない)し、国家的成果であるメダルとやらを獲得すれば、国がその人の生涯を保証するという国家の政治システムに組み入れられた選手と、寄付を仰ぎ自腹を切りながら練習を続ける選手との参加条件を問わないというほど、世界は競技の平和性について寛大ではないであろう。

そもそもスポーツというのは競技であり、戦いである。それが如何に平和のためとはいえ、その本質は相手を退け、勝利者を目指すというものなのだ。その競技において、最高の勝利者を生み出すことに国が無関心で居るはずがない。国威高揚の絶好のチャンスなのである。形振(なりふ)り構わずの取り組みとなるのは自明のことである。それが必ずしも悪いこととは思わないが、ここ数回のオリンピックを見ていると何だか次第に感動が薄れ、国家のエゴとそれに乗っかって自己の名誉欲を満たそうとする選手だけの世界のような気がして、次第に共感を覚えなくなってきている。

日本の取り組みなどを見ていると、やたらにメダルの獲得などということに囚われ、競技を運営する各種委員会などの偉い人たちは皮算用ばかりしているようだ。一方で選手といえば、最近の流行なのか、「オリンピックに行って競技を楽しみたい」などという安穏(あんのん)なのか、あるいは或る種のやけくそなのか、そのような類のセリフを吐く人が多い。かなり重い使命を背負っていると思うのだけど、インタビューなどを聞いていると、軽い感じがする。実際は決して軽い気持ちであるはずが無いとは思うけど、もう少し選ばれた者としての重さを実感させるセリフが聞きたいなと思う。これはもしかしたら、時代から取り残されつつある老人の我がままな繰(く)り言なのかもしれない。

中国がオリンピックを重視するのは解るが、チベットの問題は深刻だ。ロシアのチェチェンの問題もそうだけど、自国から独立をしようとする者たちに対しては、絶対権力を行使するのが当然となっている。多民族国家においては、独立問題は永遠の課題なのかも知れない。古代中国に、本当に尭(ぎよう)・舜(しゅん)のような太平の時代があったのかどうかは知らないけど、今の中国の治世が鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の世に遠く及ばないことは明白だ。チベット問題に関しては、双方の建前と本音の関係がどうなっているのかさっぱり解らないので、コメントは困難だけど、TVの画像を見る限りでは、中国当局の対応が人権を無視していることは明らかなようだ。

オリンピックの聖火リレーとチベット問題がくっついてしまったことは、中国にとって不運であったといえるが、そのような不運などものともせずに我を通すのが中国流のようであるから、北京での開催は、国家の威信をかけて、予定通り滞りなく進捗(しんちょく)するのであろう。13億の人民を抱えた大国の急速な発展は、オリンピックを期に益々そのスピードを加速するに違いない。農業薬害や排気ガスなどの汚染問題などはものともせず、温暖化などは知ったことではないというのが中国の本音だとしたら、地球は同時に破壊の加速化を増強するに違いない。

本来のオリンピックの話から少し外れてしまったが、現代のオリンピックは明らかにクーベルタン卿の掲げた理想から次第に遠ざかりつつある。人間社会というのは、理想に近づくことが進歩の証なのだと思うのだけど、次第に遠ざかっているのはなぜなのだろうか?

しばらくオリンピックを休みにしたらどうだろうか。波及効果の方ばかりを重視して、平和という建前の陰で蠢(うごめ)いているドロドロとした思惑の不快さを想う時、オリンピックなんかもういいや、という気分が強くなってきている。オリンピックの5つの輪は、もはや丸ではなく歪んでしまっている。これが修正されるまで休んだらどうか。国を挙げてのメダル競争などしなくても、スポーツの競技を楽しむ方法はいくらでもあるのだから。

コメント (2)
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