Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

偉大な人の死

2019年12月04日 | Weblog
中村哲医師が亡くなられました。
直接お目にかかったことはありませんが、
高校の先輩であり尊敬すべき高く仰ぎ見る存在でした。

無念だったと思いますし、
理不尽に命を奪われたことを残念に思います。
心からお悔やみ申し上げます。

ふと、吉田松陰の「留魂録」を思い出しました。

全ての人生は未完のままに終わるのだと思いました。

30年の人生もあれば、100年の人生もある。
10年の人生もあれば、50年の人生もある。
その全ては、未完に終わった人生なのかもしれません。
そして、それは、完成した人生なのかもしれません。

「吾れ行年三十。一事成ることなくして死して、禾稼のいまだ秀でず実らざるに似たれば、惜しむべきに似たり。しかれども義卿の身をもつていへば、これまた秀実のときなり、何ぞかならずしも哀しまん。何となれば人寿は定まりなし。禾稼のかならず四時を経るごときにあらず。十歳にして死する者は十歳中おのづから四時あり。二十はおのづから二十の四時あり。三十はおのづから三十の四時あり。五十、百はおのずから五十、百の四時あり。十歳をもつて短しとするは、蛄をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳をもつて長しとするは、霊椿をして蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時すでにそなはる、また秀でまた実る。その秕しひなたるとその粟たると、わが知るところにあらず。もし同志の士、その微衷をあわれみ継紹の人あらば、すなはち後来の種子いまだ絶えず、おのづから禾稼の有年に恥ぢざるなり。同志それ、これを考思せよ。」(吉田松陰先生「留魂録」一部)

長い人は長いなりに、
短い人は短いなりに、人生の四季がある。
それぞれに天命があり、寿命がある。

その人生が、
中身の詰まった米粒だったのか、
空っぽの籾殻であったのか、
それは、私の知るところでは無い。

もし、私の人生を憐れんで、
その志を継いでくれる人が出てきてくれたら、
穀物の種子が絶えないで、
次から次へと代々、受け継がれることになっていく。

同士の皆さんは、そのことをよく考えて欲しい。

人生を全力で生き抜いた人は、
最期の時に同じような思いを持つのではないでしょうか。

そんなことをしみじみと思いました。


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忘れてならないこと

2019年12月04日 | Weblog
戦時中、日本を守るために、
命をなげうって下さった人たちがいます。

戦後、焼け野原になった日本を復興させるために、
命がけで働いて下さった人たちがいます。

その人たちのおかげで、今の日本があり、
今日の私たちの生活があります。

私は、未来のために、
どれだけ命がけで教育に取り組んでいるか。

ふと立ち止まって考えてみました。

そのことを改めて自分の胸に突きつけながら、
未来のために力を尽くしていこうと思います。

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