Vision&Education

木村貴志の徒然なるままの日記です。

教育改革

2024年06月24日 | Weblog

教育を変えるという言説を聴くたびに、多少の違いはあれども、「システムを変えることで、環境を良くして、教育を良くする」という同じ枠組みで考えていることを感じます。確かに先生が余裕を持って仕事が出来るようになり、子どもと関わる時間が増えることは大切です。絶対に実現していただきたいことです。しかし、もっと大切なことは、「どのような先生」が子どもと関わるかであるはずです。

マスコミに取り上げられるような問題のある先生が、子どもと関わる時間が増えることが良いことだとは思いません。多くの人たちが願うのは、「優れた見識と人格をお持ちの先生」であろうかと思います。しかし、そのような先生がどれほどいるのか。そして、そのような先生になるために何が大切なのか。そこに踏み込むことはなかなかに困難なことです。

なぜなら、「教育観」「人間観」「国家観」「世界観」「人生観」「人間観」といった価値観を磨くことと、宗教・哲学は紙一重の所にあるからです。そうすると、思想信条の自由ということによって、良き人物の教育観や実践は、個々人の学びに委ねられるしかありません。例えば、森信三先生の『修身教授録』を読みなさいということも、なかなかできないことです。良くても悪くても、特定の考え方を押しつけるなと言われるからです。

それはちょうど、「ここに木を植えて良い。しかし、特定の木を植えてはならない。」と言われているようなもので、結局は何も出来なくなってしまいます。なぜなら、「木」という「木」はないからです。木を植えるという営みは、松・梅・杉・檜・欅・椿といった、具体的な特定の木を植えることでしかないのです。

そうした状況ですから、結局は本気で教育を考え、実践し、結果を出すことを、まず自分自身がやるしか無いと私は思います。私には、他人様を育てるような力は無いし、さりとて、「人作り」などという傲慢な言葉を使うことも出来ぬ私ですから、ひたすら自分の道を究めていくだけということになります。

え?「人作り」という言葉がなぜ傲慢か?主語と目的語をおいてみればすぐにわかります。「私が○○さんを作ります。」「○○さんは私が作った人です。」私にそのような物言いをすることは無理です。そして、常に言葉に対する感覚には鋭敏でありたいと思います。なぜなら言葉は心だからです。

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